憲法とは、政府の権限を制約したり歯止めをかけるものとする考えがある。

ところで制約と歯止めは内政問題であるのだが、外交に関わりのない内政専門家として憲法を語る人がいるから対立軸が茶番になるのだ。

アメリカやヨーロッパにおける集団的自衛権の問題は、憲法による原理主義的な制約や歯止めに頼るのではなく、ゆるい憲法の中で事例にたいする世論が随時働いて来た感じにある。

おそらく事例にたいする世論の力が働くという経験がないと同時に予想もできないがゆえに、なおさら憲法による制約や歯止めに頼ろうと局所的な議論に自分の出番を求めようとする左派集団が日本では成立するのだろう。

なるほど右派の統治意思の主張はアメリカ追従の意味もあって、左派からすればイラク戦争の失態事例により「だから反対」と制約と歯止めの主張につながるのである。

そう、「文化とは対立軸」なのだ。つまり「だから反対」という一定の左派勢力によって対立軸が定まり、それが現行日本の文化状況を現しているのである。

もし統治意思(外交および国際関係上)を共有した上での内容対立軸に至っていれば、現行対立軸の間抜けさが感じられるようになるであろうし、憲法九条の保守化の歴史検証をしない中途原理主義によって、戦争責任を担う政府と自称監視役という自分好みの役割分担を設定しながら、個別アンチの主張をその時々の話題に合わせて繰り返すことを自分の仕事に限定し続けるのである。

まあ、まともな対立軸で政府と議論が出来ない日本の状態を文化(お任せ政府と政府の外交係員化)として保存しなければならないルールであると前提するならば、左派の素晴らしき自称監視役に頼らざるを得ず、万年自称監視役の主張も正しいと言えよう。


(左派の唱える「歯止め」とは、まるで「統治意思」を右派の仕事と限定させながら、自分の仕事を独占的な自称監視役にしようとする役割分担の主張に見えて仕方がない)