日本語では生物『いる』と無生物『ある』の区別をする。ところが英語、ドイツ語、オランダ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、あるいは語順などよく似た韓国朝鮮語にも、そうした区別がありません。中にはスラヴ系ロシア語の一部の名詞に見られる、対格同型の生格 (活動体) か主格 (不活動体) による若干の類似した区別がなされていますが、市民革命や産業革命を先導したゲルマン系やラテン系の西欧言語には認められない区別なのであります。



そんな日本語の『いる・ある』の分類とは【未完了体の進行】と【完了体の存続】と重なるイメージにあり、たとえば『料理を準備している』と『料理は準備してある』で言い表されるような進行形と完了形のちがいに相当します。それを英語で言えば -ing と -ed であり、『ある』には過去や受動態の意味さえ含まれていると想定できるかも知れません。さらに極端に言ってしまいますと、何やら神様が生物を飼育 (成長の進行形) をしようと、色々と食べ物やら教育教材を取り揃えた (環境の完了形) ような世界観と共振する 『いる・ある』の日本語なのです。

ですから日本語とは生物中心主義的な考え方が台頭しやすい言語でありまして、西欧で言うところのラテン語 natura (自然) が『ある』に、cultura (文化) が『いる』に対応している感じもします。ただし『自然・文化』の分類が人間中心にあるのにたいして、『いる・ある』の場合は虫や動物なども含めた生物が対象であります。おそらくそれは日本の漫画アニメの制作にも深く関わっている世界観であって、他の文化圏から見ましても何らかの関心を呼ぶ形になっているのかも知れません。



しかし日本語の無生物『ある』と対応した生物『いる』は、単に進行や未完了に限らず、他の付随した意味を含めた感じがします。それは【見られるだけ】の『ある』にたいして『いる』は【見て見られる】存在を意味しているかのようです。

たとえば平安時代の『伊勢物語』は『むかし、をとこ有りけり』である。また『竹取物語』にしても『いまは昔、竹取の翁といふもの有りけり』だ。読み手にはわざわざ物語の登場人物から【見られることが前提されない】ばかりか、読み手側に【一方的に見る立場】が保証されている『有りけり』であろう。おそらく『いる』の恒常的使用化によって、生物全般に宿っている【見て見られる】の意識がイメージされるようになったと考えられます。

そうしますと、日本語と似たように対格の同型の振り分けで活動体と不活動体を区別しているロシア語とは言え、その内容についてはかなり異なっているため、『いる・ある』の区別には日本語の特有性を想定できるでしょう。



ロシア語において活動体の対格と同型となる生格 родительный (genitive) とは英語の所有格に相当しますが、ロシア語の意味合いとしては『親生殖による所属』や『起源』のように伺えます。不活動体の対格は主格と同型となりますので、活動体にはバックグランドを想定した所属を感じ合うロシア語と考えられます。

実際のところ、簡略化されてきた現代英語は微妙ですが、西欧のドイツ語、フランス語では二人称単数敬称に二人称複数と同型が用いられていることから、個人として見るのではなく、未知のバックグランドを配慮する形式を採用していると言えましょう。(それは二人称単敬称に二人称複 вы を用いるロシア語も同じ)

要するにロシア語の活動体の対格に生格 (属格) 同型が用いられることとフランス語やドイツ語の二人称敬称に複数同型が用いられることには幾らかの類似性が見込まれるのです、ただし西欧の二人称敬称の場合は話し相手に限定された配慮であるのにたいして、ロシア語の活動体は生物全般に見る土着世界観に浸透した形です。

他方でロシア語の不活動体に認められる対格と主格の同型につきましては、フランス語の二人称複 vous 、英語の二人称単複 you や三人称中性単 it 、ドイツ語の三人称女性単 sie や三人称中性単 es 、それに二人称敬称単複 Sie などにも主格と対格の同型がなされています。しかしフランス語 vous 、英語 you 、ドイツ語 Sie の二人称単敬称が主格と対格が同型なのにたいして、不活動体の主格対格の同型にあるロシア語は主格 вы と対格 вас で二人称単敬称では異なった形をとっています。

つまり英独仏露は丁重な話し相手にバックグランドを見る言語文化であり、さらにロシア語の場合は日常的な生物の活動体に所属バックグランドを示唆しているわけです。



そのように考えますと、日本語の活動体『いる』にはロシア語の【所属バックグランド】の意味合いはほとんどなく、【進行と未完了】もしくは【見る見られる】なのである。むしろ所属バックグランドの意味合いを含む表現は『おたく』の方だと言えましょう。彼らが『おたくは?』と尋ねていたのは、言ってみれば英独仏のように二人称敬称としての複数形を用いていたのである。