エジプト、メソポタミア、インダス、黄河について言われている世界四大文明とは、中国の梁啓超 (1873-1929) の『二十世紀太平洋歌』1900 を基礎とした歴史観らしい。それは日中韓の歴史観には浸透したようだが、他の欧米の歴史観ではたいして受け入れられなかったようである。(wiki 参照)
一方の欧米の場合はどうかと言いますと、アメリカのプレステッド (1865-1935) の用語『肥沃な三日月地帯』1916 のように、より近代西欧思想と関係が深いと思えるメソポタミアやエジプトを基幹とした発祥地に注目した形です。
20世紀初頭の日中朝の三国としましては、欧米の産業革命による海外進出の圧力にたいして新たな対策を練らなければならなかった点では同じ立場でした。そのため日本や朝鮮も古代中国の漢字を得たことからして、黄金文明の広がった文化圏と解釈し、西欧思想の根幹をエジプト文明やメソポタミア文明に見たのでしょう。また大きな河川があったという四大文明の共通性から、自然の災害と恩恵の社会的制御という協力体制を理想イメージに含んでいたのかも知れません。
すると問題は、古代ギリシャ文化や古代ローマ文化の取り扱い方に関心が移ります。時期的に見れば新しい部類の古代ギリシャ・ローマ文化であって世界四大文明の時期とは異なると判断されたのであり、文化内容としては派生的な一部類の政治体制として見なされたのでしょう。あるいは有用な古代ギリシャ・ローマ文化と見ていたは言え、差し迫った近代欧米勢力に対応するには、もっと時代に見合う最近の思想動向の方に注意が向けられていたからでしょう。
元となった梁啓超とは、西太后の保守勢力のたいしての戊戌の変法 (1898) を支持する改革派にありました。しかし袁世凱の寝返りなどにより失敗し、日本へ亡命することになった梁啓超です。
同じ事情で日本へ亡命した康有為 (1858-1927) も梁啓超と同じく中国南部の広東出身でしたが、他の改革活動によって亡命することとなった孫文 (1866-1925) にしても広東出身だったことは注意に値します。一方の保守派が優勢となった中国北部の首都北京では、その後の『扶清滅洋』をスローガンとした義和団の排外活動を支援し、日本やロシアを主力とした八カ国連合軍により鎮圧されています。
先月の中国における反日デモに重ねて言いたいこともありますが、さらに広い領域に触れていかないと誤解を生み疲れますので、やめておきましょう。
こうした近代欧米進出にたいする日中朝の事情の中、一挙にキリスト教文化の継続にあった欧米世界観を理解できないため、世界四大文明論によって東アジアには東アジアの近代化があると暗示させ、そして自然の災害と恩恵の技術的制御の見本を全般的世界史に見ようとしたように思えます。また急ぐ近代欧米思想の摂取導入は上層の統治階級にまかせておいて、他の中下層階級の大多数は世界四大文明を参考にしながら、上から降ろされた技術の遂行に従えっていればよいと言った雰囲気も感じられます。
一方のプレステッドの『肥沃な三日月地帯』は、大河を共通項とする四大文明の内、早くから顕著な出会いがあったエジプト文明とメソポタミア文明の地域におよそ匹敵し、ヘブライの旧約聖書の重要性を示唆しているのではないかと思えてしまうものです。
そこで実際の欧米各地の歴史教育の状況はわかりませんが、イギリスの歴史学者トインビー (1889-1975) の『歴史の研究』1934 の第二編第二章を見てみますと、エジプト文明、シュメル文明 (メソポタミア)、シナ文明 (黄河)、マヤ文明、アンデス文明、そしてミノス文明 (ギリシャ文化の元) の六つが親文明とされ、インド文明 (インダス) についてはシュメル文明の子文明と分類している感じです。そしてトインビーは必ずしも大河を共通項としておらず、五つの文明の発生については『自然環境の挑戦』にたいする応戦と考え、ミノス文明の発生については『海洋の挑戦』に応じたものとしています。
なるほどヘブライの旧約聖書『創世記』は、メソポタミア文明に由来するノアの方舟 (6章17節)やナイル川で繁栄したエジプト文明に関わり祖国の飢饉を救うヨセフ (45章7節) の物語であり、『肥沃な三日月地帯』が舞台である。おそらく欧米の歴史観は、大河がある文明でも特に旧約聖書を生んだ地域を強調しようとし、広く見る際には必ずしも大河を共通項としないマヤ文明やアンデス文明も含めた六大文明と考える傾向にあると予想できよう。
つまり日中韓の世界四大文明論は、近代西欧思想を育んだ旧約聖書を軽視するために大河の共通項を強調し、自然環境にたいする団結統治を強調したいために大河の共通項を示した雰囲気にあるのだ。
どうだろう。1963年に始まったNHKの『大河ドラマ』という命名には、世界四大文明論の面影も含まれていないだろうか?
しかし実際の西欧の歴史的な世界観の推移には、ヘブライの旧約聖書や古代ギリシャ神話、つまりメソポタミア文明、エジプト文明、そしてミノス文明が深く関わっていたのであり、それを東アジアの世界四大文明論という世界史観では、大河に『自然環境への対応』を象徴させてしまい、上層指導階級の歴史知らずの近代西欧思想の模倣に頼るようになってしまったと考えられるのである。
おそらく夏目漱石の『内発的開化・外発的開化』と関係する、西洋と東洋の歴史観の相違と言ってよいだろう。