1300年を舞台とする『神曲』に、1339-1453年の百年戦争。ダンテは英仏の王権国家体制の基礎となったとされる百年戦争や後のプロテスタントとカトリックの対立やフランス革命へ向かう歴史を知らず、『神曲』を創作されました。『神曲』においてフィリップ四世がアナーニ事件に関わり、テンプル騎士団の解散にいたりしめたこと(煉獄20)について記しているが、それは教皇やキリスト教擁護の立場からフィリップ四世の行き過ぎとして語られている。しかし後の百年戦争やフランス革命の歴史的流れを考慮するならば、もっとフィリップ四世の三部会開始などについても触れなければ『神曲』の歴史的位置づけも定まらないだろう。

ダンテ以降の英仏は王権による国家体制の確立化して行ったののたいして、一方の群小君主の乱立にあったイタリアは1494-1559年のイタリア戦争で荒廃し、イタリア統一は1871年(ドイツ帝国は1871年、日本の明治維新は1868年)まで待つことになった。まさに国家体制を早期に整えた英仏の先行資本主義にたいして、日独伊の後発資本主義は1936年の防共協定に至った感じである。

 また『神曲』ではアナーニ事件(煉獄20)のもう一方の当事者である教皇ボニファティウス八世の聖職売買(天堂30、シモニアの語源である新約『使徒行伝』8章のシモン)についても地獄行き(地獄19)と予言している。つまりダンテは天堂31から聖ベネテクトで締めくくっているとおり、道徳確立を優先させるため教皇擁護の立場からフランス王フィリップ四世に反し、ボニファティウス八世については相応しくない教皇として罰している形である。

 ダンテは皇帝派と教皇派の対立の中で教皇派の立場にあり、その教皇派の白党と黒党の対立の中では白党の立場から1301年にフィレンツェ百人委員会の一人になったものの、同年ボニファティウス八世の関わった黒党の政変によってやがてフィレンツェ追放(天堂17)になった。また「鷲」(天堂6)を皇帝、「百合」もしくは「バラ」(天堂23)をカトリック教皇と見た上でか、百合を紋章とするユーグカペーに始まるフランス王国カペー朝について(煉獄20)も語られている。まあカペー朝についてはカトリック王国として教皇とは協調と牽制を選択しうる立場を保持しながら、しかも神聖ローマ帝国とは国家的均衡を行える立場を示す百合の紋章にも見える。(ダンテは百合の紋章を汚したカペー朝と見ている感じだが)

 

 後のパスカルの『パンセ』では、ダンテのようにカトリック体制を保持した上で現行カトリック改革を理想としていた感があるが、ただダンテの時代ではパスカルの時代のようなカトリックとプロテスタントの対立はなかった点で異なり、パスカルはイエズス派にたいするジャンセニウム派というカトリック内の対立を主題としていた。十六世紀から強まっていったプロテスタント勢の反カトリック的批判は、すでに述べたとおり教皇ボニファティウス八世の聖職売買(天堂30)などなど『神曲』に認められる。 


1484年と1560年の三部会は、いずれもフランス王権の強化と、それに抗う諸身分の政治的試行錯誤が交錯した歴史的転換点です。 1484年は国王ルイ11世死後の王権安定化を目指して招集され、1560年は宗教対立(ユグノー戦争前夜)の深刻化の中で開かれました。

1. 1484年三部会:王権の安定と課税権の模索
背景: ルイ11世の死後、幼いシャルル8世が即位したため、摂政権をめぐる争いの中で招集されました。
主な動き: 三身分(聖職者・貴族・平民)は一致して、定期的な三部会の開催と、課税(タイユ税)の承認権を保持しようと試みました。
結果: 当初は国王側から譲歩を引き出すことに成功したかに見えましたが、実際には王権による徴税システムや行政管理の強化を止めることはできず、以降は長期間招集されない状態が続きました。 

2. 1560年三部会:宗教的危機と混乱
背景: 1484年以降、約76年間にわたり全国三部会は開催されませんでした(この間は必要に応じて名士会などが招集されました)。1560年の開催は、ユグノー戦争前夜、宗教対立が激化し国家統治が揺らぐ中で、シャルル9世の治世下に行われました。
主な動き: カトリックとプロテスタント(ユグノー)の対立が激しくなる中で、国家財政の再建と宗教問題の沈静化が議論されました。
結果: 身分間および宗派間の対立が解消されることはなく、実質的な成果を得られないまま終了しました。 

3. 歴史的意義と空白期間の重要性
1484年から1560年の間(そしてその後のブルボン朝期も含め)、三部会が恒常的に機能しなかったことは、フランスがイギリスのような「議会制」ではなく、「絶対王政」へと向かう決定的な要因となりました。国王は三部会を通さずとも独自の徴税権や行政機構を強化することに成功し、結果として絶対王政を支える基盤が構築されていきました。


 戦中「天皇陛下万歳」と言われていた時代、足利尊氏は「逆賊」と非難的評価が優勢であった。江戸末期の南朝正統説の水戸学や尊王攘夷論から尊氏逆賊説が始まり、1934年には中島 久萬吉が過去の文筆から批判にさらされ大臣の座から降りることにもなったらしい。

 そもそも尊氏が南北朝分裂を生んだわけではない。すでに歌会が分立されていた中で北朝擁立を行ったのであり、後醍醐天皇に反したのも後醍醐天皇の親政への心変わりにたいして「後醍醐さん?それ、承久の乱における後鳥羽上皇と同じだし」って感じの行動だったのだ。

 おそらく尊氏にとって様々な勢力の社会的分布状況が考慮されていたわけだし、それに政治歴史についての見解も持ち合わせていたと思われる。ところが尊氏逆賊説の人々は、ただ自身が正統とみなした基準を通してつまみ食い的に事実を説明し批判していたのだ。

 それぞれの思考傾向については、尊氏の社会分布論と批判側の社会階層論であり、ヒュームの言葉は加えるならば、尊氏の事実的(is)分布論と批判側の当為的(ought)階層論と言えそうだ。

 階層論的思考には多分に「尊氏を認めてしまうと反乱可用性が高まってしまう」という危機意識が働いていたのだろうが、「大多数の人々が階層論的思考に留まっている」という知識所持的な社会学が働かず、かつその無意識なる人々の階層論的思考を是正もしくは教育する必要性を共有した、そんな専門家集団の議論がいつまで経っても行えないのである。