奥女中26
徳川宗家3姉妹徳川宗家の屋敷は、今の千駄ヶ谷駅南側にあって、敷地の他に、飛び地もあり10万坪を越えていたという。中には、森が有り林が有り、田畑が続き、農家が点在してた。今の東京都体育館です。お謡い所もあって、慶喜も謡の会(十徳会)にしばしば来てた。お謡い所も、座敷もあり、その場所は、宗家の南に徳川邸があるが,そちらの方だったという。慶喜の息子・厚が分家されて、土地を分けて貰ったのです。家達の娘たちの表現を借りると「表の御門を出て、千駄ヶ谷の町をちょっと横切って、向こうの町に入ると、お家の地所でしょう。それで田圃を通ると、南邸の先。」自分の土地からなかなか出られないのです。 下にあるのが分家の徳川邸又、やはり、よく来たのが勝海舟の三女の逸子で、今の専修大学の創始者に嫁入した。彼女は、話が長くて、長くて、家から何度電話がかかるか判らない。夕方になると、その度に今帰ります。の連続でした。彼女は、司馬さんの(竜馬が行く」で、ちょっとだけ登場しましたね。家正の娘たちの話では、勝の姿はあまり見せてないようです。勝海舟と呼び捨てです。(テープに残されている家達の長男・家正の娘2人の会話です)記録に残したのが偉いですね。預けられてた慶喜の娘二人は、ここで勝海舟と会った、丁度学習院から帰ってきたら、勝が座布団に坐っていて、「今、お帰りかね」と声を掛けて、娘も挨拶したが、態度が横柄に見えて、部屋に戻ってきた娘たちは「なんて、嫌な爺さんでしょう」と怒ってました。慶喜は静岡に住んでたが、娘の教育の為には東京の方が環境が良いと、宗家の家達に依頼し娘を預けて学習院に行かせました又、千駄ヶ谷の徳川邸に五人の慶喜の娘たちと同居していた時の事だが、夜、盗賊が入ったそうです。その時、須賀は、姫君の身を案じて、自分の財布を出して盗賊に渡して何事も無くしたともいう。滅私奉公の言葉がぴったりの女性であった。側室の一人であったお信の姪であるという方の話があります。実は、この側室2名を。慶喜は写真判定で選考したと云うのです。競馬・競輪の話ではないのです。もしかしたら、ハナの差、微差であったかもしれませんが。確かに、2人は似ていますよね。慶喜の好みであったのでしょう。時は慶応3年の頃ですが、何人かの女性の写真を取り寄せて3人の女性を選んだという事です。一人を除いて2人とも側室になりましたお二人が養女に行かれたのは、行儀作法の見習いと聞いてます。その後長い付き合いになりましたが、2人は本当に仲の良い姉妹のような仲良しでした。御側の者の話では、何分、一位様は、やたらモダンであったので、そうしたのでしょう。この写真判定の話は、幕末慶喜の側近であった西周の「西周全集」にも出ているという。「大君3名、御抱相成候由、尤も写真にてお選びの由、二条城へも御住込に成る評判なり」とある。 二条城本丸御殿一人外れたとあるのは、新門辰五郎の娘・芳であったのでしょうか?芳は、この後は、大坂から撤退する慶喜の後を追い、開陽丸に潜り込んで静岡まで付いて行ってます。慶応3年というと、慶喜が京大阪で活動している時ですね。亰の若州屋敷に宿泊していた時の事なのでしょうか?城に居たら、自由は利きませんが、城下に居るのなら自由に行動できますね。 京での慶喜の宿泊所 若州旅館