御當日は、大人たちは皆紋付きの正装でしたが

私たち姉妹は新しいセーラー服でした。

お書生さんには、制服が一番だからです。

  誕生日と婚儀を前にしての記念撮影

前日には、姉の誕生会とお別れ会を兼て行い、

皆で記念撮影もしました。

当日は、大広間でお別れのお辞儀があり、

私たちは伯父様や伯母様と一緒に畳廊下で御見送り。

私たちは更にそこから玄関の横で御見送りした。


 

美容師は、母が有栖川宮家当時からから頼んでいた

フランス人の女性で若いお弟子を連れてきました。

衣裳の着付けは、亰から装束専門の着付けを担当する方が

来ていました。

こうした方は、当たり前ですが奥に入れます。

 

幕末、江戸に滞在した紀州徳川家の酒井半四郎は、

グルメとしても知られ、又、まめに自炊などをし、

中々飯の炊き具合に苦労したり、鰹に当たって一晩中

トイレに通ったりした。

当時の物価の値段などを良く記していて参考になる。

酒井はこの装束衣装の着付けを担当し、

藩主が公式行事に参列するときは衣装の着付けをしてた。

その縁で豪商の三井家から招待されて接待を受けたり

明治になってもお付き合いがあった。

宮妃が、心配したのは、屋敷は高台で周囲の道は狭く、

急な坂ばかりなので、上手く馬車が下りられるだろうかというのを

心配でしょうがなかったという感想が有ります。

2号

信任状捧呈式の際の馬車列

判りにくいのですが、馬車は婚礼なので2号車ではなかったと思います。

4号まであるのです。

4号

信任状捧呈式の際の馬車列

当日、車寄せには二頭立ての海老茶色の馬車が待っていました。

築山の辺りには、友人や長屋の人達が大勢御見送りに出てました。

十二単に長袴、おすべらかしの髪に親王妃しかつけることが

出来ない金の飾りを額につけ馬車に乗ると、宮家の御用掛が

陪乗し、先導の儀仗兵が出るとすぐ馬車が静かに動き出しました。

1990年11月、即位祝賀パレードに出発される現在の上皇ご夫妻(右)。ティアラは引き継がれ、2019年5月の天皇の即位の儀式で雅子皇后の頭上を飾った

先導の馬に乗った方が居ます。この方であるか判りませんが、

大分後の事ですが、高松宮妃殿下が知らない人から挨拶を

受けたそうです。

聞きましたら、婚儀の当日に馬車の脇で馬に乗ってお守りしてました。

という事でビックリしました。

そして、見たらいいお爺ちゃんなので、私もおばあちゃんになったんだと

改めて思ったそうです。

その後ろには、馬に乗った何人もの儀仗兵が手に親王旗を

持ち、お供の黒塗りの自動車が後に続いた。

 

上記は妹さんの感想ですが、では、当事者であった花嫁の

宮妃の感想はどうであったのでしょうか?

 

殿下との結婚は2歳頃に決まったらしい。

私(宮妃)が聞かされたのは10歳頃で、

「あれえー」と思ったそうです。

結婚という意味が判らないのですから。

 

初めて殿下にお会いしたのは16才でした。

母と一緒に御殿に行き、殿下が海軍中尉でした。

顔を上げらないほど恥ずかしくて、宮様のスリッパが歩くたびに

キュッキュッと鳴るのがおかしかった事だけ覚えている。

箸が転んでも可笑しい年頃です。

 

私(宮妃)は、木登りが好きで、弟の自転車を乗り回している少女でした。

これは、妹2人と共通してます。

結婚後新居となった高輪御殿に喜佐子・久美子妹2人が行きますが、

その時もセーラー服で大きな百日紅の木に

登ってる写真が有ります。

木登り3姉妹ですね。



ところがもう1人追加しなければなりません。

兄嫁の和子でした。

会津松平家の五女で、常陸宮妃の従姉妹です。

後になっての述懐では、婚儀の前から同じ町内でもあり、

姉の喜久子とよく遊んでいたようですが、結婚後、

姉妹と一緒に廊下でローラースケートをして、

老女に怒られたり、又、木登りや二階から屋根に

上ったということを話ししています。