雛祭りは、桃の節句ともいう。
江戸時代なら、陰暦ですから桃の季節ですが、
現代は、桃の季節ではないので何故と思われるが、
これは、「枕草子」の中で清少納言が「3月3日は、
うらうらとのどかに照りたる。桃の花の、今咲き始むる」
とあるように,正に桃の季節であったのです。
雛節句には、菓子が多く用いられた。
女の子が喜ぶものというらしい。
有平細工の京の鉢植え菓子、羊羹、紅白の薄皮饅頭、
うば玉などだった。
御殿医の娘である「みね」は、お雛様の事について記してる。
雛祭り
今はお遊びになってしまいましたが、昔はお嫁に行く時に
きっと持っていく品の一つで、昔の女子教育は
そんな風だったでしょう。
私の小さい頃は、節句には親類中が集まって
盛んにしたようでございます。
尤もそれは町家の事で、武家の方はホントにやると
お金が掛かるので、ほんの型だけという風でした。
互いにお雛を拝見と云って行き合うことくらいで
あったようです。
手元に2つ3つ昔の人形が残ってますが、
皆、木彫りで御座います。
今は数で作るようですが、
昔は手間や何かにはなれてのことでした。
ですから、お雛様拝見と云って見て歩いても
見甲斐がございました。
又、旗本夫人の井関隆子の日記では、度々登場しますが
浅野家に降嫁した11代将軍家斉の娘で末姫。
浅野家の御住居として尊称され、浅野候が浅野の
祖母である末姫の元にお雛拝見として屋敷に伺った記録がある。
「あるじ御宿直より則霞ヶ関なる末姫様の御住居へまうでぬ。
御まらうどあつかひ、御饗など例の如くなりとぞ。
やごとなき御わたりには此の頃御雛盛にて遊び給へり」
御住居とは尊称であり、大名の官位に応じて
御守殿とか御住居とかなるのである
加賀前田家に降嫁した溶姫は御守殿と呼ばれ、浅野家に
降嫁した末姫は御住居と呼ばれた
その権威は大変なもので、浅野候にとっては父の妻ですが、
部屋に挨拶に行くときも、当然前もって連絡してから行く。
部屋に行くと先ず老女に挨拶をする。
といっても老女は軽く頭を下げるくらいで、嫡子である浅野候は
きちんと頭を下げて挨拶をしてる内に、奥の部屋から
「お入り」という声が掛かって、やっと部屋に入ることが出来
挨拶をする。
ただ、浅野候は末姫は優しい女性であったという。
加賀前田家も御守殿を迎えた時は大変でした
赤門(東大正門)
東大の赤門は勿論赤に塗ってあるが、裏は塗ってない所がある。
少しでも節約をと、このようにして、少しでも経費を
工面したのかと思うと、担当者の苦労が判るものである。
住まいである御殿も幕府の仕様に合わせて大奥と同じように
造られるのである。
例えば、女中居住区画を「長局」と呼称したり、
鴨居の規模は江戸城大奥の規模に合わせて作られた。
勝手に造ってはならないのである。
規定通りに造らないで罰せられた藩も有ります。
姫路の酒井家では、幕府の指示と違う新居をつくってしまったため、
家老が切腹するという事態になっている。
浅野家に降嫁した末姫は、規則を破って襖を金張りにした。
この場合は、姫のしたことですから、誰も何も言えません。
あの加賀百万石でさえ、この御大礼(将軍の娘との婚礼)にかかる
費用をどう工面するか考え込んでしまった有様です。
そのことに触れている加賀藩の文書がある。
「前田家の財政窮迫はいつも通りだが、一昨年は凶作で年貢が
あまり取れなかった。
大阪へ年貢米を廻送して売却する余裕が無く藩の資金繰りが
危険な状態になった。(今の日本と同じですね)
そこで領民に御用銀を納めさせ、家中の俸禄も削減し(借り上げ)
凌ぐことが出来た。
そこに来て今度の御大礼(婚礼)である。
これは何としても首尾よくしなければならない。
先ず、内部での倹約を訴えているのである。
借り上げとは、禄の1割カットであり、借りるとは言葉だけで
返っては来ない。
これはどの藩でも行っていることで、2,3割借り上げの藩も有る。
給与の2,3割削減です。
藩士の生活が益々困窮したのは勿論である。
この時、赤門の所には当然、住民が家を作って住んでいました。
それを撤去させないといけないので、地上げして平坦にします。
その費用だけでも、1200両(今の金で1億2千万)。
ですから、御殿と赤門と合わせてですから、如何に巨額な予算が
執行されたのかと思います。