胞衣壺 - Wikiwand

当時の慣習として「家によっては胞衣壺(えなつぼ)で

(胞衣を埋納する際に納める容器)

生まれた子供の健やかな成長や立身出世を祈り

家の間口や土間に埋納された。

 

根津権現社は遥か昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、

東征の際に武運を祈って千駄木の地に創建したのが初めてで、

文明年間には太田道灌が社殿を創建している。

 

江戸時代には、5代綱吉の兄・綱重の別邸となり、

後の6代将軍になる家宣がこの屋敷で生まれた。

邸内に、家宣の胞衣(胎盤)を埋めた塚が有り、

十数個の割石が無造作に積み重なれていて

苔むした岩が残っている。

この事は、宮中のしきたりにより、健やかな成育を願うもので

貴重な民俗資料になっている。

 

徳川家達の孫娘たちは、自分たちの胞衣を屋敷の

庭に埋めたが、後に、見に行ったら千駄ヶ谷の

東京体育館になっていて、全くその行方を知る事が

出来なかったという

それに比べて家康のは今も立派な胞衣塚が有ります。

創業者は偉いのです。

家康の胞衣塚

愛知県 岡崎市 徳川家康公えな(胞衣)塚 [21265164]の写真素材 ...

室町時代には「金創秘伝」という本には、

流産した胎児や胞衣を切り陰干ししたのを削って傷口に

付けると好いとされてる。

特に、胞衣は男児に限るという。

これは、未発の生命力を貰うという考え方から来てる

 

胞衣は、江戸時代でも尊重され、庭に埋めるとか

或いは、多くの人の通る道の辻に埋めた。

人に踏んでもらった方が好いとされたのです。

「鍬貸しながら ちんこかめめっちょか」

穴を掘るのに鍬が居るが、その時性別を聞く。

 

臍の緒が後世に伝わった記録は、

江戸時代弘化4年(1847)のがある。

神奈川に六浦藩1万2千石の小大名が有り、

その家来に萩原唯右衛門という侍が居ました。

4両2人扶持ですから最下級の武士と言っても良い。

恐らく生活は大変であったでしょう。

萩原家に赤ちゃん誕生しました。「鉄太郎」君です。

驚いたことに、その臍の緒と産毛・乳歯まで残っていた。

恐らく江戸時代の武家は、臍の緒・産毛・乳歯・前髪の

4点はセットで保存していたのでしょう。


赤子は、産湯を浴びるが、母乳を飲む時に

「海仁草」(まくり)という苦い解毒剤を呑ませる習慣があった。

これを、紅絹の片で乳首の形をさせて呑ませた。

「まくりから 呑み始めたる 江戸の水」

海人草(カイニンソウ)
  苦そうですね

海人草という海草で、回虫駆除に効が有り

今も市販されてるようだが、勿論、赤子には使用されてない。

 

同時に、娘誕生なら庭に桐を植える。

嫁入の時に、箪笥や長持を桐の木で作り

嫁入り道具とするのである。