徳川家宗家16代の継承者であるが、本人は初代であるとみていた。
慶喜が徳川家を滅ぼして、自分が新しく徳川家を興したということである。
従って、慶喜とは生涯緊張した関係にあったという。
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では、田安家から徳川宗家を継いだ辺りからご紹介を。
云うまでもなく田安家は、8代吉宗が創設した御三卿の一つであり、
江戸城の傍に屋敷を構え其々門がある。
目的としては、本家の跡取りが絶えた時に後継を出すことにある。
御三卿・田安家は、10万石が賄料として与えられていた。
普通の大名は跡継ぎが無いと取り潰しにあうが、御三卿は別であり、
当主が居なくても「明屋形」として存続が認められた。
家達は田安家次男として生まれ、長男の夭逝により家督を継いだ。
そして幕末、慶喜の引退により徳川家宗家の跡を継ぐ。
慶応4年(1868)僅か4歳であった。
田安家の時は、お付の女中の数は4,50人であったが、
宗家を継いでからは100人以上になった。
その内、田安家から附き添ってきた女中は7人。
食事の際は、12人前作り、それを11人で毒見をした。
「お抱き守」は2人居て、毎晩、交代で枕元に座りお守をしたと、
お付の女中の証言にある。
家達は、東京を溜塗網代の乗物に御年寄の初井が同乗し出発し
六日かけて駿府についた。
お供は100人くらいであったという。
家達は、乗物から外を見て、あれは何?之は何?と、
頻りに尋ねたという。
行きあう大名はかって将軍と同じように出会うと会釈をしたが、
新政府軍の兵士は鳥を鉄砲で撃つなど遠慮の無いもので
あったという。
お供の者は、それを見て感慨深いものが有った。
溜塗惣網代棒黒塗
将軍用。
溜色(あずきいろ)は現在の皇室と同じ色。
陸尺の制服は、将軍・御三家・御三卿・喜連川家は黒羽織で脇差。
これ以下は、脇差無し。
家達は、静岡に居住し、月に10日ほど城へ出勤し?仕事をした。
内容は、何も判らないままに印鑑を押す事であったという。
それ以外は、学問や剣術の修行に励むことでした。
「御稽古事」と呼ばれた教育。
藩校の静岡学問所で行われ、青年組と幼年組とに分かれていたが、
家達は勿論幼年組で行われた。
出席は、毎月数回であり登校には小さな馬車で通ったという。
授業は校長が行い、家達の机は書院の大広間の上段にあり、
その他の生徒のは、遥か下座の隅にあったという。
又、もう一つの学校である沼津兵学校は、旧幕府で行われた
1月11日の具足開きとされた日に生徒たちが小隊運動が
藩主の前で行われた。
生徒44名が参加し、ランドセルを背負って行軍スタイルで静岡に
向い、当日上覧が済むと、御前で駿河半紙が褒美として下され、
旅宿には、藩の幹部から牛肉が届けられたという。