日本ケアラー連盟代表理事の児玉真美さんの本を読了いたしました。


児玉真美・・ 京都大学文学部卒。重度障害者のお嬢様がおられ、日本ケアラー連盟代表理事、著述家。

私はかねがね「 日本における高齢者の苦しみの多い終末期医療 」に関して疑問を持っており、欧米の高齢者医療の終末期は延命治療をやめて緩和ケアに入るのに対し、何故日本では死の間際の高齢者に、高額な延命治療費を社会保障費から払いながら、意識のない寝たきりのまま人工呼吸器や胃ろうを入れて辛い延命を続けるのかが理解できずにいました。(「尊厳死」に関わる本も色々読みました)

私は安楽死に関しては賛成でも反対でもないのですが、辛い延命治療を途中でストップできない日本の制度に関しては疑問を持っていました。意識のない寝たきりの高齢者への延命治療に、月100万円以上の医療費が使われるのであれば、たとえ当初は延命治療を望んでいたとしても、途中から緩和ケアに切り替えることのできる制度があっても良いのではないかと思っています。

今回の著書は「尊厳死」ではなく「安楽死」のお話でしたが、「安楽死反対派」の方々の意見がどのようなものなのかを知る大きなきっかけとなりました。

尊厳死は終末期の人にこれ以上の延命治療を差し控えるのに対し、安楽死は医師が直接的に死に至る行為を持って命を終えることを指します。日本では「尊厳死」は終末期医療の選択肢の一つですが、「安楽死」は基本的に違法とされています。

海外では安楽死が合法化されている国々がありますが、意思決定能力のある本人の自由意志によるものであることが 大原則となっています。(2023年の時点で安楽死が認められている国は10カ国以上)

カナダでは終末期(余命12ヶ月)以外でも、障害や不治の病がある人にも安楽死が認められました。対象者が終末期の人々から精神/発達/知的障害者/ 精神的苦痛などの理由であっても認められるようになったのです。


ベルギーでは、85歳の女性が娘を亡くした 3ヶ月後に悲嘆に耐えかねて安楽死を許可されています。同じくベルギーでは「認知症と診断されたら安楽死を望む」とあらかじめ書面で意思表示をしていた女性が認知症となり、 書面通りの安楽死が実行されました。

オランダでは12歳以上には安楽死が認められており、1歳未満の重病または重度障害のある子供には親の意思決定により安楽死が認められています。

カナダでは貧困により医療や福祉を十分に受けられない人たちの安楽死申請が、医師により承認され実行されました。支援さえあれば痛みや苦痛を緩和され「生きる希望」を失わずにいた人々が、安直に安楽死で問題解決されてしまう事実はとても恐ろしいと感じます。


当初はオランダやベルギー・カナダでも、もはや救命が叶わない終末期患者にのみ許される「緩和不能な耐え難い苦痛がある場合の最後の救済措置」 であった安楽死の対象が、どんどんと拡大されている状況にあります。


P65本書引用

気になるのは安楽死の対象者が終末期の人から障害のある人へと拡大していくにつれ、安楽死が容認されるための指標が「救命できるかどうか」から「QOLの低さ」へと変質していると思えることだ。


「A国では認められているのに、Bで認められないのは人権侵害だ」という論理から、安楽死を「権利」と捉えることにより、解釈がどこまでも拡大していく恐ろしさを児玉氏は指摘しています。


高齢者や認知症、精神/発達/知的障害/子供など、本人の自己決定が難しい人々の「死にたい」という意思が安楽死へと誘導されることは恐ろしいことだし、意思決定能力がない子供への、親の意思決定による「安楽死」が許されている国がある(オランダ) ことには大変驚きました。安楽死の「自己決定原則」はどこへ行ってしまったのでしょうか。


またイランでは意識不明の植物状態となった男性に対し、「限りある医療資源を他に回すことと比べれば、彼の延命治療利益の影響は小さい」として、公平な資源の分配の観点から妻の反対を押し切り、医師による安楽死が決行されました。


このようなことから、寝たきりの重度障害のあるお嬢様がおられる児玉氏は「医師の価値観次第で患者の生きるか死ぬかが決定される」安楽死に、大変な恐怖と憤りを感じておられます。


「予後が悪い患者のために少ない医療資源をそんなにたくさん自由にする権利が、どうして1家族や1個人にあるのですか? それはその資源があれば 現に利益を得るかもしれない他の患者を犠牲にすることなのに?」これは 2011年のバージニア州での、「無益な治療」論争において病院サイドから出た発言です。


児玉氏が指摘するのは、この論争が誰にでも当てはまるものではなく、その瞬間に行われる命の選別(例えば一般の患者なら行われるはずの臓器移植が、予後が悪い患者にはそのコストでもっと多くの命を救えると議論されてしまうこと)で、税金を投入するに値するか否かを医師により判断されてしまうことの是非です。

「安楽死が日本でも合法化されることにより、高齢者や障害者や病者や貧困層などの社会的弱者の命が本当に守ってもらえるのだろうか。医療現場で安楽死が日常的な当たり前のこととなるにつれ、医療職が命への畏怖を失い、病み痛む人への心の感度を低下させてしまうのではないか」


現在ベルギー・オランダ・カナダ・スペインでは、命を終了する日時が決まっている安楽死患者からの「安楽死後臓器提供」への注目が高まっているそうです。重い障害のために自分の意思を表明できない人たちは「無益な治療」論理のもと、有益な臓器ドナー プール とされているというのです。


なんだか恐ろしいことになってきました。。不安


「安楽死を望む権利」が「医療費の増大に伴う命の重さの選別」へと繋がっていく可能性がある安楽死問題。ちょっとやそっとで「賛成」や「反対」を語れない重さがあるということを感じた一冊となりました。