…ある小説を読んでいたら、旧約聖書の創世記に出てくる「カインとアベル」の話が出てきました。


その小説の中では、この物語が少し引用されていただけだったのですが、私はそこに妙に引っかかってしまって。

今日は、そのことを少し書いてみたいと思います。


※もちろんこれは、聖書の正しい解釈を語るものではなく、あくまで今の私にこの物語がどう刺さったのかを綴ったものです。ひとつの私的な読みとして、読んでいただけたらと思います。

~カインとアベルのあらすじ~


カインとアベルは、アダムとエバ(神の楽園から追放された男女)の子どもたち。

兄のカインは土を耕す人、弟のアベルは羊を飼う人。

あるとき二人は、神にささげものをした。

カインは畑の作物を、アベルは子羊をささげた。

すると神は、アベルとその供え物には目を留めたのに、カインとその供え物には目を留めなかった。

そのことでカインは強い怒りと嫉妬にのみこまれる。


そしてカインは、怒りを抑えきれず、弟アベルを殺してしまう。 

神に問われても言い逃れをするが、罪は見抜かれ、罰せられる。 カインは土地に祝福されず、さまよう者として生きることになる。

この話は、ただの兄弟げんかではなくて、
神に受け入れられなかった側の痛みや、
人は不公平に傷ついた怒りを治められるのか、
そういう重たいテーマが入っている話なんだと思う。 


…で、私が一番引っかかったのは、 

「なぜ神は弟のアベルの子羊だけを喜んで受け取ったのか」 

ということ。 

だってそんなの、完全に“えこひいき”だし、不条理でしょ。 


聖書本文そのものには、
「なぜか」ははっきり書かれていないらしい。 


不条理の中で何かを学べと言いたいのかもしれないけれど、

不条理側に立たされた人間にとっては、本当に辛いよ。 


だって、努力が報われないんだよ。 

何も悪いことをしていないのに。


アベルは、自分の飼っていた子羊を殺して捧げた。

カインは、自分で育てた作物を収穫して神に捧げた。

私は、そこに本質的な差はないと思う。


…でもこの世界には、理由の見えない選別がある。
同じように努力しても、なぜか片方だけ認められることがある。

しかも、その「なぜ」は説明されない。
カインの悲劇は、単に嫉妬深かったからではなく、
なぜ自分は選ばれなかったのかもわからないまま、
見捨てられたように感じたことに耐えられなかったのではないか。
私はそう思う。

そう考えると、カインは単なる悪人ではなく、
不条理な世界に最初に傷ついた人間のようにも見えてくる。

そしてこの物語は、
「神が不公平だった」というだけの話ではなく、不公平に傷ついた時、人はその怒りをどうするのか
という問いも投げている。

聖書が、「人間は平等じゃないからね」という事実を、
救いの前にまず突きつけてくることに、
私は深く刺さってしまった。

…カインとアベルって、ただの兄弟げんかじゃなくて、
同じ親から生まれても、同じようにはならないという、
ものすごく原初的な不条理が入っている。

努力したかどうか以前に、
なぜか片方だけが認められてしまう。
この理不尽さは、人生そのものに近い。

そして私はカインに、娘の姿を重ねてしまった。
いや、たぶん娘だけじゃなく、私自身の姿も重ねていたのだと思う。

娘は言った。
「私は友達の何倍も努力している。それでも成績はみんなには到底敵わない」

世の中って、同じように頑張っても、
同じように願っても、
ある子は通れて、ある子は落ちる。
ある人は愛されて、ある人は後回しにされる。
しかも、その差が必ずしも努力や誠実さと比例しない。
そこが苦しい。ほんとに苦しい。

ただ、聖書のあの場面で大事なのは、

不条理そのものより、傷ついた心をどう扱うのかということだと思う。


不条理な世界そのものより、

その不条理に傷ついた人間の怒りが、どこへ向かうのか。

ここが核心なんだと思う。


これってすごく難しいよね。

もちろん、何クソってバネにできれば一番いいけど、

そんなことできる人間ばっかりじゃないでしょ。


私と娘が毎日戦っているのは、

成績だけじゃなくて、

“努力したのに報われない自分”をどう生きるか、

というかなり大きな問題なんだと思う。


私が絶望に沈めば、娘も沈むし、 
娘が絶望に沈めば、私も沈む。

どうしていいのかわからなくて、 
出口の見えない真っ暗なトンネルの中で泣くことも、
たくさんある。 
ここ最近の私は、まさにそんな感じだった。

でも、カインにもし伴走者がいたら、どうだったのかなと思うの。
神様には捧げ物を認めてもらえなかったとしても、
その作物を一緒に育てる仲間がいて、笑い合える日々があったなら、
もしかしたら結果は違ったのかもしれない。

神様の判定だけがすべてじゃないよねって、
笑い合えたかもしれない。
…要するに、娘にとっての伴走者は、私だから。
人生のままならない不条理を、どう受け止めて、どう抱えていくのか。

その時、
「あなたと一緒にいるよ」
と言ってくれる人の存在の大きさは、きっと絶対にある。

たぶん最後に残るのは、そういうことなんだと思う。
だから私は、娘にとっての伴走者であり続けたい。