〜本当のあなたを解き放て〜 -6ページ目
こんにちは
はまひとみです。
ただ、認めてもらいたかった
ただ、一言褒めてもらいたかった
飢えた、満たされない思い。
わたしはこの飢えた思いで
がんばってきたと思う。
それが本当に自分がやりたいことかどうか、
そんなことを考えることもなく。
認めてもらえそうなら、
という理由で。
小学生の頃は
家庭訪問の日程が決まると
待ち遠しくてウキウキでした。
先生がわたしのことを話してくれるだけで
嬉しかったし、
こんなことができて、
こんなことが良くてって
先生がわたしのことを褒めてくれる
話しを聞くのがすごく嬉しかった。
でも、
わたしの本当のウキウキは、
先生の褒めてくれる話しじゃなくて、
その話しを
お母さんに聞いてもらうこと。
そして、
がんばってるね、って
認めてもらいたかった。
先生が褒めてくれたら、
お母さんも認めてくれるだろうって
それを想像してウキウキで、
毎回、家庭訪問は、
ガッツリ期待してました。
(今思うと、健気でかわいい♡)
そして、先生が来て話し始めると、
まずは母がわたしの文句を言い始める。
あれがだめで、これがだめで、
あれもできなくて、これもできなくて、
もう本当に困ってるんですよ
ってわたしの愚痴をひとしきり話して、
先生も何かあったら怒ってくださいね。
っていう内容で終わる。
学校での様子とか質問することなく。
母がものすごい勢いで話すので、
先生も困った感じになってて、
学校での良い点とか言ってくれて
先生もフォローしてくれるんだけど、
母の耳には入ってない。
中学3年まで、毎回このパターン。
中学生になると、そんな期待は全然なくて、
先生の困る姿が目に浮かんで、
恥ずかしかった。
とにかく母は、
わたしがどれだけダメで、
どれだけできなくて、悪いのか、
それをわかってもらおうと
心血を注いでいる感じで。
わたしにはそれがいつもの当たり前の光景で、
何かを思うってことも特にない感じに
なってて。
でも、
本当はそんなこと言われたくなかったし、
聞きたくなかっただろうと
今は思うけど、
心を麻痺させていたんだと思う。
ただ認めてもらいたかっただけなのに、
認めてもらえない代わりに、
何に怒られてるのかわからないくらい
怒られてばかりの毎日。
ただ、
お母さんに認めてもらいたかった。
「良かったね」とか
「がんばったね」とか
たった一言、
たったそれだけ
言ってもらいたかった。
大人になっても、
わたしの心の中はいつも
褒め言葉や認めてもらうことを渇望してたけど、
たま〜にそんな場面に出くわすと、
絶対にそんなことはないです!!!!!
って拒否してました。
あんなに飢えて求めていたのに、
わたしが自分で受け取らないように拒否してた
という皮肉。
でもそうやって、
わたしは自分を守ってたんです。
受け取るモードでいたら、
つらいじゃないですか、、
もらえないから。
だから、飢えて求めていたけど、
いやいや、
わたしには認めてもらう、褒めてもらう、
そんな価値はないのだとしてた。
そんな見えない鎧を着て、
もらえないつらさを感じないようにして
わたしの心を守ってた。
目に見えない心の鎧。
たくさん身に着けてきたと思う。
そりゃあ〜どんより重たいはずだ。
この見えない心の鎧を一枚ずつ
脱いでいこう。
そして、満たされなかった思い、
わたしが満たそう。
こんにちは
はまひとみです。
どうみても世界が違う
楽しそうに充実してそうな人を上にみて
勝手に自分が下になって、
劣等感や引け目を感じる一方で。
この人何にもわかってなさそうって人を
下にみて
態度には出さないようにしつつ
心の中では優越感の中で接して、
自分はこの人より
わかってて、できてるみたいに思って
優越感を感じることがあって。
そんな自分がイヤだなと思いながら、
でも、身についた自動運転のようにやってました。
わたしが人を見下したなって
はっきり覚えてる出来事があります。
わたしが小学生のころ、
友達のお母さんや、母の友達などと会うとき、
その人たちから一対一で
お説教されるってことが増えてました。
「ひとみちゃん、お母さんから話し聞いたよ」
から始まって、
「ちゃんとしない」
「言うことを聞かない」
「やることが遅い」みたいな
母から聞いた話しを繰り返し注意されて、
「お母さんほんとに困ってたから、
ちゃんとしないとだめだよ」
みたいな感じで終わる優しめのお説教。
友達のお母さんから初めてお説教されたとき、
体が熱くなって、涙が溢れそうで、
悲しくて、腹が立って、
でも泣かないようにがんばって、
言いたいことはいっぱいあったけど、
黙って我慢してその場をやり過ごした。
またあのつらい気持ちになりたくなくて、
2、3回目の頃から
「何でこんなことが起こるんだろ?」
って理由を考えるようになりました。
お母さんは自分の子どもの悪口を言いふらして
仮に悪い子だとしても、
悪い子に育てた親である自分の
至らなさを晒してるのに、
何でそんなことするんだろう?
お説教をしてくるこの人は
お母さんの話しを鵜呑みにして、
目の前にいるわたしのことを何も見ないで、
何の話しも聞かないでいて、
こんなにお説教できる
って何でなんだろう?って。
「何で?」を考えてる間は
そして出てきた答えが
「この人はバカなんだ」
ってことでした。
お母さんも、
わたしにお説教してくる人たちも、
バカなんだ。
だからこんなことができるんだ
って納得して、見下したんです。
そしたら、
楽にお説教を聞き流せるようになって。
「バカなんだ」って人を見下すことで
体が熱くなって、涙が溢れそうになることも
つらい気持ちになることもなくなって、
楽になった。
あのときのわたしの精一杯の処世術。
そうやって、
何とか気持ちを保てたおかげで、
イヤな気持ちを味合わなくて楽になったし、
反発することなく、
暴れることもなく、
嫌われることもなく、
問題児扱いされることもなく、
何とかみんなと同じ輪の中で
やってこれたと思う。
だけど、
わたしの内側は、
言いたかったけど言わなかった言葉の数々、
流したかったけど、ぐっと堪えた大量の涙、
込み上げてきたけど、抑えたほとばしる感情
そんなものたちで溢れかえってて。
これらたちは
わたしにべっとりまとわりついてた。
こんにちは
はまひとみです。
小学3年生のとき
プールの授業が終わって教室に帰る途中に、
同級生の頭に砂をかけたことがあります。
その子は先天性の障がいのある子で
プールの授業はいつも見学で、
「あー暇だ、暑いー、退屈」
って文句を言っていて、
あの日、わたしの何かがプツンと切れました。
今まで自分の中で感じたことのない
怒りみたいなのがメラメラメラメラして、
プールの授業が終わって
教室に戻ってる
その子の後を追いかけて、
校庭の砂を握りしめて、
追い越しざまに頭に砂をかけました。
その瞬間はやってやった!
って感じだったんだけど、
すぐ、
「何てことしてしまったんだ!!」って
具合が悪くなるような後悔が押し寄せて、
わたしの人生終わったって
恐怖に押しつぶされそうになってました。
帰りの会は、もう刑務所送りだ、くらいの
恐怖と罪悪感でいっぱいで、
担任の先生が
「〇〇さんの頭に砂をかけた人は誰ですか」
っていうお説教と尋問があったけど、
こわくて名乗り出ることができなかった。
それと同時に、
あの子、わたしがやったこと
わかってるはずなのに先生に言ってない??
ってそれがびっくりで。
あの子はただいつも通り過ごしてただけなのに、
何にも悪くないのに、
あんなひどいことをしたわたしのことを
かばってくれてるような気がして、
あの子の優しさというのか、心の大きさに
完敗というか降参したような気分でした。
やってやるってスイッチが入った人間は、
盲目です。
善悪とか、相手の気持ちとか
そんなことは何も思い浮かばない。
あいつーー!
どうやって懲らしめてやろうか!
あおり運転をやる人みたいに、
あいつは間違ってる、おかしい!
悪者は懲らしめてやらなければ!
ぐらいの正義感で、
理性は全く働かなくて、
手を下した後に目が覚める。
わたしはプール苦手だけど、
一生懸命やってるのに、
あの子はだるそうに見学して、文句言ってて。
給食のときは、
あの子は苦手な献立を見るだけで
気持ち悪くなるということで、
机の配置は特別編成で、みんなで机を移動して。
あの子の登下校は毎日お母さんの送迎で、
朝はわたしたちが駐車場にお迎えに行って、
ランドセルや荷物を教室に持っていって
帰りははあの子のランドセルや荷物を持って、
駐車場のお母さんの車まで運ぶ。
毎日お母さんが送り迎えしてくれて。
ときどきお母さんのお迎えが遅いときは、
「もー遅ーい!!早く来てよー!」って、
あの子はお母さんに文句を言ってて、
でもあの子のお母さんは
「遅くなってごめんね〜
みんないつもありがとうね〜」
ってニコニコしながら謝って、
わたしたちにお礼を言ってくれる。
あの子のお母さんは、
朝と帰り毎日送迎して、
ひどい文句を言われても
いつも優しい雰囲気でニコニコ笑顔で、
こんなお母さんがこの世にいるの?
っていう信じられなさと、羨ましさと、
二コニコの笑顔からふと垣間見える憂いとで、
もう気持ちがわーって溢れてしまいそうに
なるので、
お母さんの顔は面と向かって見れなかったけど、
遠巻きから見るだけでも
心が安らぐようなお母さんでした。
あの当時はただ、ただ、
ひどいことしてしまって
ごめんなさいっていうのと
自分を責めるっていうのを
自分の中でやることしかできなかった。
ずーーっとあの罪悪感を抱えて、
成人してから、
あの子がたまに連絡をくれたけど、
その度にプールの帰りのことを思い出して
罪悪感とこわさでたまらなかった。
自分でも何であんなことをしてしまったのか
どれだけ考えてもわからなくて、
ただ自分を責めることしかできなかった。
今までみることができなかったことを
この数年は時間をかけて一つ一つ
みていきました。
何であんなことしたのか。
プールのときの文句や、
あの子の態度が原因ではない。
わたしが自分を偽って
良い子でいようとがんばってたこと、
わたしが欲しい形で
お母さんから愛をもらえなかったということ。
自分を抑えて我慢して、無理して、
たくさん欠乏感を感じていて、
そのやり場のない
怒りのような悲しみのようなエネルギー
がわたしの中に充満していた。
あの子は人から良く思われようとかなくて、
自分が苦手なことは無理しないで
苦手なことは学校に伝えていて、
お母さんからの温かい愛をたくさん
受け取っていて、
自分に正直に生きてるような子でした。
わたしにはわからない、
みんなと同じような生活ができない辛さや
見えない差別みたいなことも
あったかもしれないけど、
それを受け入れてる強さのある子。
わたしはそこに甘えたんだと思う。
あの当時のわたしには持ちきれなかった
怒りや悲しみのエネルギーを
あなたの心の器ちょっと貸して、
みたいな感じで、
肩代わりしてもらったような気がする。
わたしが自分を抑えることなく、
自分じゃない誰かのように偽ることもなく
そのままの自分らしさで生きて、
自分の快や不快を受け入れて、
自分を大切にして、
満たされていたとしたら、、
あの日のプールの光景は
何も気に留めることなく、
通り過ぎて記憶にもなかったことだと思う。
こんにちは
はまひとみです。
自分が腹立つことって
本当ににただのお知らせ機能
うちの中3娘の子育てにおいて、
娘の自我が現れ出した3、4才ころから
わたしは悩み悩みの毎日でした。
わたしの話しを聞かない
教えても言う通りにやらない
自分のやりたい放題
気に入らないと癇癪を起こす
こういうことはわたしには謎でしかなくて。
わたしは口では言わなかったけど、
娘に対して、
「空気読みなさい、わかるでしょ!」
と思ってて。
そして、空気に反した行動をとる娘に対して
空気でわかってるはずなのに、
反逆してる、と思ってて、
「反逆しやがってー!」
とそこに腹が立ってました。
わたしは
「みんな空気読んで行動してる」
と思ってて、、
空気に反発した行動を取る娘は、
ひねくれてるから、
歪んだものをまっすぐにしないと
将来大変なことになる
と戦々恐々とした思いで毎日夜も眠れなくて、
何とかして心の真っ直ぐな子に育てなければ、
と真剣に思ってました。
それなのに、
いくら話しても通じない。
あの手この手いろんな伝え方をしても通じない。
それどころか、
反発、反発、反発。
そのはずだわ
何もかも間違ってました。
ぜーんぶ的外れ。
わたしの当たり前な前提も的外れで、
悩んでる内容も的外れ、
娘に言い聞かせてる内容も的外れ。
夜あんなに何とかしないとー💦
ってこわくて眠れなかった悩みも的外れ。
間違えた悩み方でスタートしてて、
その先もズレて、ズレて、
抜けられない悩みの迷路みたいだった。
あんなに真剣に一生懸命悩んでたのに、、
自分の悩みに向き合って、
少しずつ悩みがなくなっていったとき、
雲がふわっとなくなって晴れたような
あれ?ない!?
みたいな感じだったんですよ。
例えると、蜃気楼。まぼろし。
そう、
わたしのあの悩みたちは、
ぜーーーんぶ
まぼろしでした。
そして、
何であんなに腹立つのか、
何がイヤなのか、みたいな
わたしの中から出てきた思いを
一つ一つみていった結果、
出てきた言葉が、
「言うこときいてたまるか」
この思いがわたしの中にあるのに
表に出たらダメって蓋をしてるから、
娘の言動がイチイチわたしの癇に障る。
でも、わたしは
「言われた通りにやるもの」
もっと言うと、
「言われる前に気付いてやるもの」
だと信じてたから、
娘の言動がさっっぱり意味わからなくて、
だけど、
腹が立ってしょうがなかった。
本音が出てきてスッキリしたーーー!
娘には、いつもの
「ありがとう」と「ごめんなさい」
だな、、
教えてくれてありがとう。
それなのに、
気が付かなくてごめんなさい。
いっぱい怒ってしまってごめんなさい。
こんにちは
はまひとみです。
すべてうまくいっている
若い頃読んだ本に書かれていた言葉で、
とにかく苦しくてしんどかった時期、
この言葉は、ええ?って衝撃的だったけど、
わたしはこの言葉に何度も救われました。
心と体がバラバラに感じて呼吸が苦しいとき、
すべてがギクシャクしてうまくいかないとき、
沼に溺れてるときは
思い浮かびすらしないけど、
疲れて力が抜けたとき、
この言葉を思い出すことがあります。
怒りがふつふつしてるときに
思い浮かんでも
心の中の反発がすごいんだけど、
怒りがちょっと落ち着いた頃に
「すべてうまくいってるとしたら?」
って問いかけると
心がすーっと穏やかになって、
自分の執着に気づけたり、
そうじゃなくてもいいのかなと思えたりして、
心がふっと軽くなることがあります。
この視点でいると、
良いとか悪いとか
正しいとか間違いとかじゃなくて、
丸ごとそのままそうなんだ、って
優しい世界にいるって感じがするし。
無駄に落ち込まなくていいし、
焦る必要もないし、
何かをコントロールしなくていいから
ほっと楽になる。
囚われの囲いがなくなって
心がバーンて広がる感じ。
すべてが必要なピースで、
必要な道を歩いているだけなんだと。
そうやって心が落ち着いてくると、
見えてなかった恩恵が見えてきたりする。
うまくいってるの定義は
人によって違うと思うけど、
わたしにとってのうまくいってるって
ただそれでいい、
みたいな、そんな感じ。
暗闇の沼にはまって抜けられない
もう疲れたーってとき、
ちょっと顔を上げて、
目線をちょっと上げて。
すべてうまくいってるから。
ちょっとしたことだけど、
こういうことで
気持ちが切り替わるからすごいなー
すべてうまくいっている。
こんにちは
はまひとみです。
やっぱり素直に生きるのっていいな、
心を楽に生きるって大切だな
と思う今日この頃です。
心に鎧をたくさん身につけてると、
自分じゃないような自分で生きるので、
自分てこれでいいのかなって自信がもてない。
自覚があっても、なくても、
しんどい、苦しい、重たい、やる気出ない
みたいなのが常にあります。
この違和感に気付けるか
これが自分だと言い聞かせて、
このままの自分で生きるのか、
自分の奥からかすかに聞こえる
本当の自分で生きたいみたいな声を
キャッチして、
あるのか、できるのかわからないけど
解決できそうな道に進むのか
これは大きな分岐点
そのためにも、やはり必要なのは、
素直な心だと思う。
今の自分の苦しさを認められる
本当は今のような自分じゃなくて、
こういう自分で生きたい、
っていう健全な自己否定ができる
素直な心。
心にたくさん鎧をつけてると、
そんな自分を直視するのはイヤなんです。
正々堂々と見れる人ってすごいなって思うけど、
多くの人は違和感だらけの自分を直視するのは
イヤなんだと思う。
でもこのイヤを通り越して、
心の鎧を身に付けてる自分を見て、
そして、
心の鎧を一枚一枚外していったら、
楽〜に生きられる世界があります。
まず、自分にはムリって思うと思う。
どーせ、でも、だって、
を言い散らかして、
ふて寝して、
はあーってため息ついて、
さて、
「自分はどう生きたい?」
って自分に問いかける。
重いのか、軽いのか、
しんどいのか、楽なのか、
どんよりなのか、スッキリなのか、
実はどちらも選べる。
見たくないイヤな違和感を感じて
カッコつけの自分とか、
ダサい自分とか、
ひねくれてる自分とか、
ジタバタしながら
心はチクチクするかもしれないけど、
これも自分って
素直に見れるといいなと思う。
そうしてると、
前は見れなかったものや
持てなかったものが
見れるようになるし、
持てるようになる。
地味だけど、
ささやかな喜び。
楽に、軽く、スッキリ、
生きよう。
こんにちは
はまひとみです。
この時期になると、挨拶がわりに
「夏休みの宿題終わった?」
という話題から始まります。
うちの中1の息子は
小学校の頃は毎回、
8月後半に入ると悲壮感が漂ってきて、
31日に泣きながら宿題やり始めて、
それでも終わらなくて9月1日はズル休みとか
昨年は全部の宿題が終わったのは10月とか
こういうのが恒例でした。
以前のわたしは、
夏休みは息子の宿題のことが悩みで、
息子が動画見てるのももやもやしたし、
出かけて遊んでいても、
息子の宿題が頭の片隅にあって、
宿題終わってないのに遊んでていいんだろうか
ってもやもや、そわそわして、
ママ友に相談したことがあります。
こういうことをよく知ってるママ友から
連絡がありました。
ママ友の友達の娘さんが
夏休みの宿題が終わりそうにないと。
それなのに、本人は宿題をやる気もなく、
旦那さんも無理にやらなくていいと言う、
それに加えて、
日頃の学校生活も休みがちという状況らしくて、
どうしたらいいのか、
悩んでいるとのことでした。
(うちの不登校娘と宿題やらない息子を
足したような子だということで連絡が来た(笑)
)
この時期になってくると、
頭の中で計算できる訳です。
あの量を終わらせるには時間が足りないぞ!
って。
何とかしないといけないのに、
何でやらないの!って。
旦那さんまで宿題やらなくていいとか言って、
どういうこと?って。
ママ友のお友達と直接話した訳じゃないから
わかりませんが、
わたしの場合は、
息子の夏休みの宿題のことを自分の悩みとして
憤って、
悶々としてました。
もしそのお母さんが、
かつてのわたしみたいに、
自分ごとのように悩んでいるなら、
それはお母さんにとっての、悩みです。
宿題を終わらせてない、
学校も休みがち、
そんな今の
我が子のままではいけない、
と思っているお母さんが、
これは自分の悩みで問題で課題なのだと
気付くことから。
子どもが宿題終わらせて、
毎日学校に通っていたら、
もやもや、イライラ、の原因はなくなる
と考えてしまいがちですが、、
親なら何とかするのが当然と言われる方も
います。
何とかする愛情もあると思うし、
それが功を奏するならそういうのも
いいと思うんですけど。
でも、あれこれやっても変わらない、
そしてこのことを、毎日、朝昼晩と悩んで、
モヤモヤ、イライラして、
子どもとの関係が悪くなってる、
それを改善しようとするけどうまくいかない
みたいなことになっているなら
お母さんが、
これは自分の問題だと自覚して、
自分のモヤモヤ、イライラに
向き合うことだと思います。
もしかしたら、
みんなと違うのがいやかもしれない
誰かに怒られそうでいやかもしれない
自分の劣等感を炙り出されそうでいやかもしれない
それは今は何かわからないけど、
もやもやや、イライラは
自分の中に何かあるよっていう
お知らせ機能なので、
不快かもしれないけど、
丁寧にみてみることが大事です。
なので、
こういうことがあるときは、
今の心境は不快かもしれないけど、
新しい扉がノックされてて、
本当の自分に気が付いてほしいとき。
子どもも宿題も何にも問題じゃない。
こういうことを本当に自分に向き合って
やっていくと、
子どものことは子どもに、という、
本来の状態に戻るので、
子どもも自由にやりたいことを
やりたいようになる!
それが、
学校に行くのか、不登校なのか、
宿題をやるのか、やらないのか、
それはわかりませんが。
そこも子どもに委ねて、
お任せでいいって
わたしは思います。
お母さん自身が自分に意識を向けて、
自分の思いを知り、
自分のやりたいことを
小さなことでもやってみる。
悩んでる暇がなくなります。
そんなことを思った
ママ友からの連絡でした。
こんにちは
はまひとみです。
自分が悪いとか
自分はダメだとか
こういう自分にとって辛くて苦しい思いを
わたしはぎゅっと握りしめて
長いこと生きてました。
突然なんの話し?って感じですが、、
本当に自分では自覚なく、
自分のせいで、ごめんなさいって思ってて、
自分は本当にダメなヤツだと思ってて、
自分を責めるってことを
無意識に何十年と信じてやってきました。
大事な場面や大事な選択のときは、
本命じゃない方に進んでました。
周りが決めたようにみえることも、
そのときは自分でも気付いていなかったり、
うっすら気付いてても、
仕方ないって受け入れてたり、
ひどいときは
自分の本命に対して
気持ち悪さや、嫌悪感を抱いたりしてまで。
そんなことまでして
本命じゃない方に進んできました。
先読みが過ぎるし、
千手前くらいで手を打ちすぎ。
なので、
自分の顕在意識では
理解不能なレベルで、
本命を本命とも気づかず、
本命じゃない方を選択してる。
でも、だからと言って、
それを後悔してるかというと、
そうでもないんです。
あれがあったから、
たくさんのことに気づけた
やはり通ってきた道は
すべて本命だった。
すべて本命なのですが、
本命を避けてきたような感覚が
自分の中にどこかあります。
この件について今思うことは、
避けてきた本命ってどういう感じ?
本命を選んだらどうなるの?
未知なことへの好奇心というか、
知りたいというのか、
味わってみたい
欲が出てきた感じ。
だけど、これがなかなか。
たやすくない。
本命だ!と思っても、
うまくいかない。
何でなのーやっぱり自分には無理なのか、、
そういう場面で自分の内側をみてみると、
やはり、
そこにあるのは罪悪感。
そして、避けたい感情。
でも、諦めるんじゃない。
これにも意味があるとか、
仕方ないとか、
自分を守る言い訳をしながら
今までたくさん経験したきたはず。
自分の中にある罪悪感と
見たくない感情。
丁寧にみていこう。
そして、いろんな冒険をしてみよう。
こんにちは
はまひとみです。
先日、ごはん屋さんで隣の席の
男性の話しが気になって聞いていたら、
「俺は悪い」
という言葉がありました。
罪悪感。
若い頃、結婚を考えていた本命の彼女の他に、
浮気の彼女がいて、その彼女が妊娠して
中絶をお願いしたそうです。
でもその後も浮気の彼女から連絡が来て、
前のような関係になり、二度目の妊娠。
これを機に、
本命の彼女と別れて妊娠した彼女と結婚した、
というような話しでした。
その後は聞けなくてわからないけど、
「俺は悪い」って
大きな罪悪感を背負って
生きていかれるのかなと思って、
胸が痛かった。
自分が悪い、自分のせい
そう言われると、
それ以上何も言えない感じになる。
罪悪感って苦しいし、見たくないものだし、
持っていたくないもの。
それなのに、
何で自分を悪くするのか、
ここに大きなメリットがあります。
自分が悪いと、誰も責めなくていい。
何か善人のような気持ちになれる。
自分一人が罪を背負うから、
あなたたちの分も全部背負うから、
みたいな。
その場面においては清々しいというか、
善人になれる感じがあるんですよね。
自分のせいなんだから、
誰のことも嫌いにならなくていいし、
責めなくて良くなる。
これ以上いやな気持ちにならなくて済むって
作用があります。
そして、これが本質だと思うのですが、
自分が悪いってしてると、
そのときの悲しみや寂しさ、怒り、絶望などの
ネガティブな感情を
感じなくて済む。
本当はもしかしたら、
悲しくて、
さみしくて、
腹立たしくて、
地獄のような絶望
が湧き上がっていたかもしれないけど、
自分が悪いのオブラートに包むことで、
自分のことを丁寧に扱って
実は繊細に感じてる
痛みを感じなくて済む。
その場面では、
「自分のせい」にしたおかげで、
いつも通りの日常が送れて、
落ち込むことなく、
楽に乗り越えられて済む
そんな効用があると思います。
でもこれには、
副作用もある。
はっきり言うと、
自分のせいにしてるのって、
ごまかす、偽る、だます、鈍くする
そんな感じ。
そして、
ゆくゆくは自分を痛める。
罪悪感の字のごとく、
罪のある悪い自分には罰が必要
みたいな感じで、
幸せの真逆に走る。
大好きな彼女と幸せになってはいけない、
好きではないけど、
この人と一緒になるのが自分にはちょうどいい
みたいな。
全ては起こるべくして起こってる。
一緒になるべくして一緒になって、
別かれるべくして別れて、
生まれるべくして生まれた命。
自分のせいとか、
自分が悪いとか、
罪悪感とか、
ぜーんぶウソだよーって、
言えたら良かったな。
良いとか悪いとか、
そんなのウソ。
わたしのせいで、
子どもたちを育てられないもウソ。
誰かに迷惑をかけて困らせるもウソ。
自分のせいっていうオブラートを
びりっと破って、
本当のところをみよう。
あのときはできなかった、
みたくないものを見て、
あのときの痛みを感じる。
本当の本当は、
自分が悪いとか、自分のせいだとか、
一ミリも思ってない。
あのときは本当のことをみることができなかった
ただそれだけ。
でも今の自分ならできるかもしれない。
本当の本当の思いに気付くことが。
無理しないで
できるときにやったらいいと思う。
そうすると、いつの間にか
自分のせいで、自分が悪い
って癖がゆるむのかな。
ゼロではないけど、
うすーくなっていく。
悪人役を降りて、
罪も罰も終わらせよう。
そんなものはそもそもないんだから。
ウソなんだから。
こんにちは
はまひとみです。
育児書やビジネス本とかで
まず相手の話しを聞こう
というのがよく言われます。
子どもが小さかった頃、
子どもを良い子に育てたくて
育児書の通りにそれを実行したかった。
でも、
いくらやってもできない。
何かをやってるときに子どもが話しかけてきて
手を止めて子どもの話しを聞こう、
今そのタイミングだ、
と頭では思っているけれど、
できない。
がんばって話しを聞いたとしても、
次第にイライラしてくる。
そしてダメ出しポイントが
あれこれと見えてくる。
子どもの話しの内容や、話し方に
注意したくなる衝動が抑えられなくなって、
子どもの話しを遮って
わたしが話し始める。だいたいそう。
子どもは「?」となりながら
話しを続けようとするから、
お互いが自分の話しを聞いてほしいのに、
お互いが話しを聞いてもらえない
みたいな感じになり、
険悪な空気になる
。。。
毎回こんな感じで、
育児書通りにがんばってるのに、
できない自分をダメ出しして、
最後はHOW TO本は自分には合わない
ってことで、すべて手放しました。
今ならわかる。
何で子どもの話しを聞けないのか。
がんばって聞いてるのにイライラしてきて、
最後はわたしの話しをし始めるのか。
それは、
わたしが自分の心の声を
聞いていなかったから。
誰かの話しを聞く前に、
まずは自分が自分と話しができてる、
自分の心の声を聞いている、
これが大前提なんだと思う。
自分の心の声を押し殺して
無視していると、
人の話しを聞くことはできないんですね。
わたしが自分の話しを聞いていなかったから、
子どもの話しを聞けなかったし、
もっと言うと、
わたしが自分の話しを聞いていなかったから、
わたしの話しを子どもたちに
聞いてもらいたくなる。
子どもたちは自分の話しを聞いてほしくて
話してるのに、
いつの間にかお母さんの話しを聞くハメになり、
満たされない思いが募り、
関係もぎくしゃくする訳です。
まずは、
自分の話しを自分が聞くことから。
この経験をして思うのは、
自分の心の声を自分で聞くってことを
心がけていると、
自然と相手の話しも聞きたくなる
ってこと。
わたしは長年自分の心の声を押し殺して、
無視してきたので、
自分の心の声を聞くとか
簡単にはできなかったけど、
できないながらに聞こうって気持ちでいると、
もっと聞いてー
もっとわかってー
っていう自分からの心の叫びがすごかった。
何かの出来事があると、
満たされてない心の叫びを感じることは
今もあって、
でも素直に耳を傾けるのは
正直面倒くさくて、
逃げたくなる。
外側の誰かとか、
周りの何かに意識を向けて
いっときは逃げるんだけど、
その間は結局苦しい期間が続くんですよね。
面倒くさいけど、
やっぱり自分が自分の話しを聞くと、
ほっとするんです。
言葉じゃないときでも、
ただ受け止めるだけで、
満たされる感覚。
そうしていたら、
相手の話しを聞かなくちゃとか、
がんばって話しを聞こうとか
そういうことじゃなくなってるんですよね。
前からこうしてたけど?
何か?
みたいな感じ
(笑)
それでいい。

