【田沼意次(渡辺謙)】
享保四年~天明八年(1719-1788)
 紀伊徳川家の足軽身分だった父・意行が、当時部屋住で主税頭頼方と名乗っていた吉宗に仕えて以降側近となり、宝永二年吉宗の紀州藩主相続に伴い奥小性(身の回りのお世話をする家臣、ドラマ等で殿様の横に座って太刀持ちをしている前髪立ちの少年ではない。あれは稚小姓-ちごしょう-☝️)を務め、享保元年の八代将軍就任に伴い200人ほどの同僚と共に紀州藩士から吉宗に従い幕臣編入の一人となり将軍付御小性(御小納戸と共に将軍の世話係)禄高300俵。御小性上位者の通例により従五位下主殿頭に叙任。享保十九(1734)年相模国高座大住郡に600石を賜り同年御小納戸頭取になるも就任四ヶ月ほどで死去し、嫡男の意次が遺跡を継いだ。
 意次は享保四年、意行の長男として江戸は本郷弓町の屋敷で誕生。紀州系幕臣第二世代に相当し、江戸城西の丸にいた将軍世子家重(のちの九代将軍)の御小性に抜擢されていた。
 以降時系列で並べると以下の通り👇
🔹享保十九(1734)家重付西丸御小性
🔹元文二(1737)従五位下主殿頭に叙任
🔹延享四(1747)小性組番頭格兼奥勤
🔹寛延元(1748)小性組番頭兼奥勤1400石加増で2000石へ
🔹宝暦元(1751)御側御用取次に昇進
🔹宝暦五(1755)3000石加増で5000石へ
🔹宝暦八(1758)5000石加増で1万石となり評定所への出席を命じられ、郡上一揆の審理にあたり遠江相良に領地を与えられる。因みに前後十数回の加増により、遠州相良のほか駿河、下総、相模、三河、和泉、河内の七か国14郡にわたり東海道から畿内にまたがる知行地を得る。
🔹宝暦十(1760)将軍家重隠居し、世子家治が将軍相続。意次、御側御用取次留任。
🔹宝暦十二(1762)5000石加増で1万5000石に。
🔹明和四(1767)御側用人となり従四位下に昇叙。5000石加増され2万石。意次世子意知(19歳)、従五位下大和守に叙任
🔹明和六(1769)老中格側用人兼務、侍従兼任し5000石加増。
🔹明和九(1772)老中となり5000石加増、計3万石となる。
🔹安永六(1777)7000石加増
🔹天明元(1781)1万石加増され計4万7千石。同年意次の子・大和守意知、奏者番となる。
🔹天明三(1783)意知、部屋住の身分のまま若年寄に抜擢され意次が主導する一連の幕政を支える。
🔹天明四(1784)若年寄・田沼山城守意知、江戸城内で新番組番士(500石)の佐野善左衛門政言に斬りつけられ、のち落命。
🔹天明五(1785)1万石加増され5万7千石となる。
🔹天明六(1786)失脚。老中を依願御免、雁間詰に降格されさらに2万石減知。
🔹天明七(1787)3万7000石を召し上がられ蟄居となる。
🔹天明八(1788)没。享年七十。

【田沼意知(宮沢氷魚)】
寛延元年~天明四年(1749-1784)

 田沼家菩提寺は豊島区駒込七丁目の臨済寺勝林寺。勝林寺は元和元年湯島に創健、明暦の大火で本郷蓬莱町に移転。明和九年(1772)の大火で焼失。中興開基の田沼意次により再建され、昭和十五年(1940)現在地に移転。
 境内墓地に、地表より4㍍余はあろうかの大きな唐破風型石塔の意次の墓碑が現存。ほかの墓碑は全て改葬され、意知の墓碑に意知と歴代藩主の合祀墓、さらに夫人と子女たちの合祀墓が一基、それぞれに法名と没日が刻まれ、七曜紋の家紋を付した石門と透垣で囲まれている。
 上記、リブログ(何故😅😒)した吾輩の別ブログに八年前の勝林寺掃苔時の写真を掲載。