過日、伊能忠敬さんのブログ内容に関連して...
 右側の国指定史跡『伊能忠敬の墓』の左側に忠敬の19歳下の師である高橋至時さん👇と、
その子で、やはり幕臣で天文学者の
高橋景保
さんのお墓があるんだけど、今回はその
高橋景保さんの話。
【高橋景保】
天明五年~文政十二年(1785-1829) 
 幕臣で天文学者。通称・作左衛門。伊能忠敬の天文学の師・高橋至時の子。景保もまた父に天文学を学ぶ。伊能忠敬とは兄弟弟子の関係になる。二十歳で父の跡を継いで幕府天文方となった。
その後の景保の活躍はめざましく、文化六(1809)年、西洋舶来の資料を参考に
『新鐫総界全図(しんせんそうかいぜんず)』
という世界地図🗺️を作成し、翌年には、
『新訂万国全図』を完成させている。
同十一(1814)年、三十歳で将軍家の蔵書を管理する書物奉行に就任。天文方も兼任していた景保は、伊能忠敬の全国測量の事業を監督するとともに、様々な情報を掌握する立場になった。
 才能と人脈に恵まれた順風満帆の人生...それが続く筈だった....が、「人生好事魔多し」の喩えの如く景保の身に突然襲いかかったのが😰
『シーボルト事件』である。
 長崎オランダ🇳🇱商館の医師で、長崎郊外の鳴滝に塾を開いて日本に西洋医学を教えた事で知られるシーボルトが、文政九(1826)年に江戸を訪れた時に、景保はシーボルトを訪ね、お互いが必要とする資料の交換を約束した。ところがその後、景保が海外持ち出し禁止の地図などをシーボルトに提供した事実が発覚し、関係者の証言もあって、文政十一(1828)年十月、景保は重罪人として捕縛されたのである。
 彼は翌年二月十六日に江戸小伝馬町の牢屋敷で獄中死、享年四十五歳。
☝️とまあ、ここ迄は彼の人となりを語ったわけだけど、この先はおぞましいので、見たくない知りたくない人はここでやめといておくんなまし🙇。


⚠️以下閲覧注意⚠️ 




 国立公文書館に保存されている☝️
📖『蛮蕪子(ばんぶし)』(著者未詳)という文献の中に景保の獄死後の経過が詳細に、それも図入りで記されている。
 判決が下る前に亡くなった高橋作左衛門景保の死骸は、判決が下るまでは"大切な身体"として、塩漬け保存されることになった。
 そんな事有ったの😱って思うでしょ現代人の我々からしてみれば。
 それが寛保二(1742)年、八代将軍吉宗の時代に編纂された📖『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』の中に、以下の条文がある。
☝️
「重科人死骸塩詰之事」の条に、主殺し、親殺しの逆罪と関所破りおよび幕府への反乱など「重謀計」を企んだケースに限り、その他の場合は「不及塩詰事」(塩づめに及ばざる事)と定められている。これら重罪人は、刑の執行前に死んでも処刑せずに済ませては社会へのしめしがつかないという理由で塩漬けにされ、遺骸を処刑されたのである。
 したがって、高橋景保だけの特別な事ではなく、大坂町奉行所の与力で謀叛を企てた大塩平八郎しかり、桜田門外で井伊直弼を襲撃した元水戸脱藩浪士たちも同様な道を辿った屍もあったようだ。
 江戸時代の風俗史の参考資料として有名な☝️
📖『藤岡屋日記』(東京都公文書館で閲覧可)には、瓶に入れて塩漬けされた養父母殺しの罪人の死骸が1年半後に引き回され磔にされた事が記載されているし、尾張藩士・朝日重章の日記📖『鸚鵡籠中記』にも元禄期(1688~1704)に不倫関係にあった女を殺害した男の死骸が女の死骸もろとも「塩漬」にされ磔になったとあるし、尾張藩以外にも弘前藩(津軽家)でも行われていて、江戸時代の前期には、抜け荷(密貿易)を犯した者にも死骸塩漬けのうえ磔・獄門の刑が執行されており、死骸塩漬けが全国的だった様子が窺える。

閑話休題

 そして👇国立公文書館蔵の『蛮蕪子』に図入りで載っている
「高橋景保死骸塩漬けの大瓶」である。
塩漬の致し方ハ、尻の方へ
竹筒をつらぬき、塩を突っ込むこと夥し。凡そ八九升も這入り候よし也。口を開きて、こゝよりも塩を詰めとぞ。
(塩漬けされる死骸には、肛門と口から大量の塩が詰め込まれた)

 瓶の底へ小穴を明ケ置(開け置き)、臓腑腐亂するハ、塩水ニ和して地にしミ入る也。塩減ずれバ、追々増塩致し候事。
(しばらくすると内臓が腐り、塩と混ざって瓶の底の穴からしみ出る。そうすると死骸の中の塩が減るので塩を追加する)

 見廻りの時は、縄を解き石と蓋を取りて、頭上の塩三寸ばかりを払ヘバ、頭顕(あら)ハれて髪毛黒々と見ゆる。肉色は黒く見ゆるよし也。
(瓶には塩がぎっしり詰め込まれていて、蓋を取っただけでは死骸の様子がわからない。三寸ほど塩を取り払うと、ようやく頭の上が見えるが、死骸の髪は黒々していて、さらに下に埋まっている身体の皮膚の色も黒ずんでいた)
とかガーン
 これほど多くの塩と人手と時間がかかる塩漬け死骸だったから、その保管には細心の注意が払われたらしい。松浦静山(まつらせいざん/肥前平戸藩主:松浦壱岐守清/明治天皇の母方祖父)の有名な随筆📖『甲子夜話(かっしやわ)』巻三十七に、牢屋奉行(因獄)の石出帯刀が、景保の塩漬けに万が一の事があってはと心配して、瓶を浅草の「溜(たまり=病人の囚人を収容する所で浅草の場合は非人頭車善七が管理)」に移したと書かれているが、その後間もなく小伝馬町牢屋敷は火災に見舞われ、最高責任者の石出帯刀はその「先見」を讃えられたという話もある。
 高橋景保の遺骸は、獄死から一年以上経った文政十三(1830)年三月二十六日、

「重々不届之至ニ付、存命候得者、死罪被仰付(おおせつけらる)者也」の判決が下った。遺骸は、関係者によって下谷源空寺に葬られたという。

 上記「高橋景保之墓」はそういう事情で簡素なものになっているのだろうと推測されるし、元々葬られた場所から、この源空寺境外墓地に移転されたものであろうと吾輩は思っている。


🏢国立公文書館(千代田区北の丸公園)

🏢都立公文書館(国分寺市泉町)
....吾輩がよく都立公文書館に閲覧しに行って且つコピーをとりに利用していた頃は二子玉にあってチャリンコ🚲で行けたけど、国分寺市に移ったって事は🚲ではもう行けないよな...残念だなぁ~😩


出典:
氏家幹人著『大江戸残酷物語』洋泉社刊


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