紫式部の父藤原為時(岸谷五朗)は、長徳二年(996)淡路守に任ぜられた時、
「苦学寒夜紅涙霑襟 除目後朝蒼天在眼」
(寒い夜の苦学の甲斐もなく希望した地位につけず涙にむせいでます)
という漢詩を一条天皇に送って無念さを吐露したという。 
 当時、国司が赴任する国は、大国、上国、中国、下国の四つにランクされていた。淡路国は下国だったため為時が、このような漢詩を添えて官職を求める上申書を提出したところ、当時未だ十代だった一条天皇は深く胸を打たれその結果、為時は淡路守から大国の越前守に就く事になったと📖「今昔物語」は伝えている。
 この頃為時は長く官職に恵まれず、花山天皇により式部丞、六位蔵人に任ぜられ12年ぶりに官職を得たが、花山天皇の出家によりその職を失いまたもや10年もの長い不遇の時代を送ってきた。そんな不遇の時代を経て再び官職を得て下国とはいえ淡路国の国司に選ばれたのだからさぞや張り切ったであろう。
 日本にとって長く国づくりのお手本だった中国(唐)との関係がこの頃は随分変わっていて、「日本」と号しての外交が初めて行われたのは702年、公卿の粟田真人が遣唐使として唐にわたり大宝律令の完成を報告したという。しかし794年平安京が遷都されてから100年後の894年遣唐使が廃止されることとなり、国力が衰えた唐に危険を冒してまで行く必要はないと説いたのが菅原道真である。その
判断は正しく907年唐王朝は滅亡した。
 唐滅亡後は、華北中原に5王朝、その周辺に10国が乱立。所謂『五代十国』と呼ばれる時代が始まり、そこから70年の混乱期を経て979年中国統一を果たしたのが
「宋」である。日本はそれまで隋や唐から仏教、儒教、律令制などさまざまなものを取り入れたが、唐の衰退によって日本独自の文化が形成されていく。7~9世紀に中国から取り入れた「漢字」をもとにしながら10~11世紀にかけて「仮名文字」が作られ、この仮名文字の誕生により日本語ではの表現方法が磨かれ、この結果生まれたのが📖「枕草子」であり📖「源氏物語」だったのだ。その国風文化が盛り上がりを見せることになったが、894年の遣唐使廃止以降中国との交流が途絶えたわけではなく、むしろ民間の海上交易は活性化していた。「趙宋」と呼ばれた宋が建国されたのが960年、そこから「金」に滅ぼされる1127年までを「北栄時代」という。
 966年に生まれた藤原道長は、996年左大臣まで昇り政権を掌握。1017年に摂政と藤原氏長者を嫡男の頼通に譲り、1028年道長が没すると、1074年に頼通が亡くなるまで長く政を掌握し続けた御堂流藤原氏。中国の北栄時代は藤原摂関家の全盛期から院政前期まで重なる事となる。
 平安中期、東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は、三輪宗と密教を学んだのち商船に乗って983年宋に渡った。三国伝来の釈迦像を持ち帰った事で知られるが、滞在中、北栄二代皇帝・太宗に謁見する機会まで得ている。接待の席で奝然は太宗から日本について様々な質問を受け、それに答えた。とりわけ太宗は、皇統が連綿と続く単一王朝が貴族制で支えられるという国づくりに関心を持ったと云われている。それがのちのちの科挙制度による官吏登用に繋がる。
 ヨーロッパの文化にも大きく影響を与えたといわれる宋の三大発明「火薬・羅針盤・活版印刷」はヨーロッパに先駆けて発明された。
 藤原道長が政権を握ると、商人の朱仁聡が林庭朝、周世昌らと共に若狭国に上陸。70人の宋人が越前国に移送されたのは、まさにそんな勢いの中で生まれた出来事であった。
 越前守に赴任した為時は宋の商人たちとの交流が始まり、父に同行した紫式部も、環境の変化に戸惑いながら、この地で10年余りを過ごす事となる。
 
 太宗が996年没すると、997年その跡を継いだのが襄王、後の三代皇帝・真宗である。その時代を描いた華流歴史ドラマ
が、『大宋宮詞~愛と策謀の宮廷絵巻』
 平民から皇后に昇りつめたリウ・タオが扮する劉娥が主人公☝️
いやぁ~おもしろかったわぁこのドラマ😄

 そして同じ時代北方ではモンゴル系の契丹(キタン)の部族を統合して『遼』が建国される。
『燕雲台』
こっちもおもしろかったッス
漢民族王朝 🆚️ 非漢民族王朝

こっち目線から見るドラマ
🆚️
あっち目線から見るドラマ

どちらも👌よござんす


出典
「東洋経済online」「中国時代劇歴史大全2023年度版(扶桑社)」