安倍晴明 921~1005 延喜二十一~寛弘二
 官位は従四位上左京大夫兼天文博士

 今回のドラマでは『あべのはるあきら』で登場しますけど『あべのせいめい』の方が通りが良いですわな。
 安倍氏は大化の改新の頃、左大臣を務めていた安倍倉橋麿を祖とするも、その後安倍氏は衰退し、平安時代の中期、下級官吏の子として晴明は生まれた。成人した晴明が勤めたのが当時注目されていた朝廷の機関・陰陽寮だった。ここで陰陽師達が国家公務員として働いていた。陰陽師たちの主な仕事は天体観測とそれに伴うカレンダー具注暦の作成。貴族達はこの具注暦を参考に吉凶を占って日々を過ごしていたという。
 延喜元年右大臣まで務めた菅原道真が無実の罪で大宰府に左遷され、のちに非業の死を遂げた。すると都では要人達が立て続けに病で亡くなるという怪現象が起きた。そして前代未聞の災害が都を襲う。天皇のいる内裏の清涼殿に雷⚡が落ち、大勢が稲妻に打たれ体を焼かれて死んだ。全ては道真の怨霊のせいだと人々は震え上がった。当時は天災や飢饉も怨霊や鬼の仕業だと信じられていた。その災いを祓う事を期待されたのが陰陽師であった。
 北斗七星を含む九つの星の名を唱えながら独特な足運びでステップを踏む「禹歩(うふ)」という天の力で鬼を祓う奥義。

 ...安倍晴明というと🎬野村萬斎主演の

【陰陽師】で有名だけど、実は☝️

 平安京の一介の公務員(陰陽寮)だった晴明の名が歴史上に初めて出たのは天徳四年、40歳。それも天文得業生(見習い😓)だったという。
 この天徳四年内裏の火災🔥で、「大刀契」という四つ目の神器といわれる霊剣二振が焼失。
晴明の師匠でもある陰陽師賀茂保憲指揮の元、晴明もこの霊剣の復元に参加したというが...実際は晴明の子孫の弟子だったという📖『若杉家文書』に「晴明即造也」とあり、晴明が自ら霊剣を復元したという。
 寛和二年(986)、一条天皇(母は道長の姉・藤原詮子)が七歳で即位すると晴明は陰陽寮を離れ、天皇直属の陰陽師「蔵人所陰陽師」に抜擢。体の弱かった幼帝の健康長寿を願い、朝廷では様々な方策の為、密教の僧侶達に加持祈祷を命じたが、晴明は陰陽道の新奥義「泰山府君祭」という儀式を行う事を申し出た。「泰山」(山東省)は古代中国の霊山で死者の魂がたどり着く場所とされ、この山に住むのが泰山府君(閻魔大王の部下とも閻魔大王自身とも言われ人間の寿命を司る)。
 長保三年、晴明81の時、平安京の大晦日の恒例行事「追儺(ついな)←現在の節分👹の原型」の儀式(👹を追い払おうという意味で「おにやろー」と声をあげながら練り歩く)ところが、この年天皇の母で道長の姉・詮子が崩御し自粛を命じられた。しかし晴明は自粛を破り追儺を強行し、その声を聞いて自粛していた人々はいつしか都の隅々まで「おにやろー」という👹を追い払う声がこだましたという。この事の関して朝廷からのお咎めはなく人々から「晴明は陰陽の達者なり」と誉めそやされたという。
 京都市上京区晴明町の晴明神社の宝物で室町時代中期に描かれたという晴明の肖像。
👆右下には🎬『陰陽師』にも出てくる「式神」
が描かれている。

 晴明屋敷跡に立つ安倍晴明神社⛩️晴明の死後二年目に一条天皇の命で創建された。
 晴明の死から395年後の応永六年(1399)、泰山府君祭を執り行った足利義満の引き立てで、安倍家当主は上流貴族の証である従二位に昇進、以後安倍家の嫡流は「土御門」を称した。
 時代は下って江戸時代の寛文七年(1667)、勝手に晴明の子孫を名乗り江戸で頭角を表した陰陽師の一派大黒家を糾弾する文書で土御門家こそが陰陽道の正統であると主張(土御門福寿丸口上書)。
16年後の天和三年(1683)諸国陰陽師の支配権を土御門家に一任するという勅許が出て、幕府もこれに追従し明治維新まで続いた。


出典
BS4K 101『英雄たちの選択 選「陰陽師・安倍晴明」平安京のヒーローはこうして生まれた』