【藤原道綱】955~1020 天暦九年-寛仁五年
 藤原兼家の次男で道長の庶兄。別名を『傳(伝)大納言』というように官職は正二位権大納言。
 官途における競争相手だった藤原実質に、道綱を称して「一文不通の人」(何も知らない奴)「四十代になっても自分の名前に使われている以外の漢字が読めなかった」と揶揄されていたように、父(兼家・摂政関白太政大臣)や兄弟(道隆・摂政関白内大臣/道兼・摂政関白右大臣/道長・摂政関白太政大臣)に見られる政治的才能や母(藤原寧子)のような文学的要素が無かったと言われているが、紫式部と同時代の📖『和泉式部日記』の著者和泉式部は「憐れを知る人」と評しており道綱に好感を持っていたといわれている。
 道綱の母・藤原寧子(正四位下伊勢守・藤原倫寧娘)は兼家の側室だが
📖『蜻蛉日記』の作者として有名☝️😏

 道綱の正室は源倫子(道長正室)
の妹・中の君。父は関白左大臣・源雅信(宇多源氏)。
 尚、道綱の跡は異母弟・道兼の三男兼綱が継いでいる。