2️⃣お知保の方──森川 葵

元文二年~寛政三年(1737-1791)

3️⃣お品の方──西野七瀬

生年不詳~安永七年(1778)
 十代将軍になる家治と正室の倫子(ともこ)はまれにみる仲睦まじい夫婦だった。倫子は結婚して三年目に長女・千代姫が生まれたが、夭逝している。何としても次は若君をと、家治は望んだが、次も姫で万寿姫(ますひめ)と名付けられた。
 女腹の「御台様」では、将軍家の跡が絶えると、大奥の筆頭御年寄の松島が、家治に側室を置くように進言する。選ばれたのは、松島が身分の低い「お次」から仕込んで御中臈になったお知保の方。父は御家人津田宇右衛門信成。元文二年(1737)十一月生まれなので家治とは同い年。
 松島のやり方は、御台所付き上臈広橋をいたく刺激し、松島に対抗する為、広橋からも側室を上げることになった。
 側室に選ばれたのは、従二位藤井兼矩卿の息女で、家治の御台所五十宮が、江戸に下向した時付き添ってきた御簾中御中臈のお品の方である。しかし、お品が万一にも、実力者の松島に意地悪をされることのないように、広橋はお品を松島にあずけている。
「一刻も早く若君を!」
という周囲の声におされ、お知保とお品は、自然に家治の寵愛を競い合う形になった。
 宝暦十二年(1762)十月、お知保の方は長子竹千代を生んでいる。
 広橋は「お世継ぎの若君は、ぜひとも御台様の御養いになさいますように」と家治に訴えた。
子は万寿姫のみの倫子の淋しい心中を察し広橋の願いを聞き届けた。
 竹千代は生まれてすぐ、お知保の手から取り上げられ、御台所の倫子の養子となった。
その代わりとしてお知保の方は大奥女中の最高位である「老女上席」となり、独立の部屋を与えられた。
 お知保の方の出産に二ヶ月遅れた十二月、お品の方が次男・貞次郎(さだじろう)を生んでいる。
しかし哀れなことに貞次郎は、翌年の三月に生後三ヶ月で早世してしまった。
 法名を崇善院殿幻如惺覺大童子
上野凌雲院に葬送された。
貞次郎の夭逝に力を落としたお品は、病がちになり、奥御殿の一隅でひっそりと影も薄く暮らしている。
 明和二年(1765)十二月一日、竹千代は家基と改め、翌三年四月元服、従二位権大納言となった。
 同六年十一月、九歳になった家基は世子となり西の丸に入った。お知保の方もこれに従って西の丸に移り「御内証様(ごないしょうさま)」の資格を与えられた。
 ところが明和八年八月二十日家基の養母の御台所倫子がこの世を去った。このためお知保の方は、晴れて世子家基の生母となり、「御部屋様」と称されるようになる。ゆくゆくは十一代将軍の生母と仰がれるはずであった。
 お知保の方の幸運に比べ、お品の方は、哀れにも安永七年(1778)十月二十七日この世を去った。
法名は養蓮院殿妙開心華大姉。上野東叡山凌雲院に葬られた。
 家治は、側室を二人しか置かなかったので、お品の方亡き後、お知保の方はたった一人の側室となり、また世子の生母として、大奥での権勢は並ぶものの無いほどであった。
 世子家基は、十八歳となり、政治向きのこともわかるようになっていて、権勢をほしいままにしている田沼意次に批判的な目を向けていた。この
英邁な家基に反田沼派の譜代層は大きな期待をかけていた。そんな安永八年二月二十一日、家基は江戸近郊の新井宿に鷹狩に出かけた帰り俄に発病、驚いた家治は典医の手厚い治療を受けさせ、諸寺に祈祷をさせたが、その甲斐もなく二十四日薨逝。三月十九日未之刻御出棺東叡山に御葬送。
常憲公(綱吉)・有徳公(吉宗)御相殿(現在の寛永寺常憲院霊廟)。
法号は孝恭院殿贈正二位内大臣
 あまりにも突然の家基の死はさまざまな憶測を呼ぶことになった。家基の死で将軍家治の二男二女の実子は一人も居なくなった。当然、養子を迎えなくてはならない。将軍後継者をめぐり、一橋家、田安家、尾張家が三つ巴になって争うことになった。
 田沼意次は弟の意誠(おきまさ)が一橋家の家老だった関係で、一橋治済(はるさだ)とともに、将軍の養子について策を練ることになった。
 天明元年(1781)閏五月(👈この年は五月が二回😓)、田沼意次は病床の家治を動かし、一橋治済の長男で九歳になる豊千代を将軍世子として迎えることに成功した。豊千代のちの十一代将軍徳川家斉である。
 天明三年(1783)の浅間山噴火🌋などに端を発する飢饉(天明の大飢饉)は民を苦しめ、一揆、打ちこわしが多発した。
 そんな中、家治は天明六年の春頃から病がちになった。八月の初めに水腫で床についた。そして九月八日薨去。齢五十。十月四日未之刻御出棺。
東叡山に葬送された。厳有(家綱)公御相殿(現在の寛永寺巌有院殿霊廟内)。
法号は俊明院殿贈正一位大相國公。


2007~2008 改葬整理される前の寛永寺谷中徳川家墓所(御裏方霊屋)の
👇配置図
寳樹院(家光側室/家綱生母)
高巌院(家綱正室)
浄観院(家慶正室)
證(証)明院(家重正室)
澄心院(家定継室)←篤姫の前の正室
貞明院(家慶六女)
浄圓院(吉宗生母)
香琳院(家斉側室/家慶生母)
至心院(家重側室/家治生母)
沖縁院(家斉六女)
👆心観院(五十宮倫子)───👆蓮光院(お知保)
👇長昌院は六代家宣生母(谷中善性寺から改葬)
法心院(家宣側室)
蓮浄院(家宣側室)
安祥院(家重側室/清水重好生母)


将軍御台所特有の石製八角宝塔
👇心観院殿(五十宮倫子)

👇当時はまだまだ不勉強だった為にこの程度の写真しか撮らなかった😩。一番手前の位牌型が
順性院(家光側室)、次の五輪塔が沖縁院。その先が将軍家特有の石製珠型宝塔で至心院、香琳院、蓮光院(お知保の方)、浄圓院と並んでいた。





出典
📖「歴史読本2011-3月号 徳川三代の夢と野望」新人物往来社刊
📖「柳営婦女伝双」名著刊行会刊
📖「別冊歴史読本 徳川家歴史大事典 徳川家女性総覧」2017年 新人物往来社刊
📷白黒写真=吾輩がおおむかし寛永寺谷中徳川家墓所(御裏方霊屋)で撮ってきた写真