その1️⃣【五十宮倫子】   ─小芝風花
 新興の閑院宮家から将軍家に入った姫宮で、二代将軍秀忠の正室・お江(江与/崇源院)以来150年ぶりの将軍正室の懐妊、出産した女性。
 五十宮倫子(いそのみやともこ)は、元文三年(1738)一月二十日、閑院宮直仁親王の第六王女として誕生。閑院宮家は天皇家に皇位継承者がいないときの備えのために設けられた「世襲親王家」の一つ。世襲親王家は、南北朝時代に創立された伏見宮家に始まり、安土桃山時代の桂宮、寛永期創立の有栖川宮と、三家が設立されたが、なおも皇統の継承に不安が生じたため、宝永六年(1709)、新井白石が将軍家宣に建言し、東山天皇の当時七歳の第六皇子直仁親王を立て、新たに閑院宮が創立された。新興の閑院宮家にとっては勢力伸張が緊急の大事であった。最も確実なのは我が子を縁戚によって要所に置くこと。直仁親王は四男八女の子女をもうけている。
 妃の脩子(しゅうし)は関白太政大臣近衛基熈の娘であり、脩子の姉は六代将軍家宣の御台所となった天英院近衛熈子がいる。天皇家はもちろんだが、徳川将軍家とも太いパイプを通じていた。
 五十宮の生母讃岐は閑院宮家に仕える女房だったが、よほど健康な上に直仁親王と相性が良かったのか享保十七年から元文三年(1732-1739)の七年間に六人の子をもうけている。同母の兄姉六人の一番下という、最も愛育される環境で育った。
 六歳上の長兄公啓法親王は、伯父にあたる中御門天皇の養子となったが、のち僧籍に入り、天台宗最高位の天台座主(ざす)となっている。次兄は二代閑院宮典仁(すけひと)親王、また一歳年下の異母弟は摂家鷹司家を継承(鷹司輔平)。
 直仁親王は我が子らを京都で着々と枢要な地位につけたが、彼の野心は徳川将軍家へ娘を入れることだった。
 八代吉宗と九代家重の正室には伏見宮家から入った。そしてこの頃将軍家重には倫子より一歳年長の嫡男・竹千代(のちの家治)がいた。閑院宮家にとっては将軍家と連携する絶好のめぐりあわせだった。
 家治と倫子の縁談は、京都所司代牧野貞通から武家伝奏に伝えられ、摂政一条道香のもとで朝議を経てまとまった。それまでには、様々な根回しといくつもの内諾のもとに進み縁組が決まったのは寛延元年(1748)十月十六日で、倫子は11歳、家治は12歳だった。
 政略結婚は、縁談が纏まれば、婚儀に向けて物事がどんどん進む。将軍家重は老中堀田正亮と大奥をつかさどる留守居土屋秀直に五十宮の関東下向を滞りなく進めるように命じた。
 二ヶ月後、松の内が明けた一月七日には、五十宮を迎え入れるため、大奥の使者が京都に遣わされた。同十三日には五十宮の江戸入りのときの江戸市中の対応が決定、入輿(じゅよ)の行列が見えたら、往来の人を止め、大名屋敷は門を閉ざし門番も立たせず、家々の窓もただ閉めておけばよいという緩やかなものであった。寛延二年二月五日、五十宮は京都を発駕。江戸に着いたのは三月十九日で浜御殿(現在の浜離宮)に入った。わずか十二歳で生家を離れ、宮廷の歴史・文化・伝統を一身に受け江戸城に入るのである。和歌などの古典・書道・茶の湯・生け花・香合わせなどは、一通りしつけられているが、まだ未熟なので、京都から公家の娘たちが従った。彼女たちは大奥で上臈御年寄や小上臈となる。この中に家治の次男・貞次郎を生む、のちの側室お品の方がいた。
 江戸城中で将軍世子家治と五十宮の婚姻が公表されたのは、五十宮が江戸に移って四年後の宝暦三年(1753)十一月十一日で、五十宮は「姫宮」と呼称された。
 翌年六月二十三日に納采(結納)の儀があり、婚儀が行われたのは十二月朔日(ついたち)であった。五十宮十七歳、家治は十八歳。辰の刻(午前八時🕗)、五十宮な本丸御広敷(大奥の入口)から西の丸大奥に入った。
 婚儀は粛々と行われ、老中堀田正亮・若年寄板倉勝清ほか、幕府の重臣たちは褐色の熨斗目・麻裃に威議をただして連なった(👈止めてよキンキラキン🔆の裃にするのは😩)。この日以降、五十宮は「簾中御方(れんじゅうおんかた)」(御簾中<ごれんじゅう>)と呼ばれる。
 結婚の祝賀は盛大で、連日城中の能舞台では猿楽が催された。諸大名・幕臣だけでなく町入能(まちいりのう=江戸市民の見物)も許可され、菓子を賜った。
 家治の祖父吉宗は延享二年(1745)に将軍職を退き大御所として西の丸に移ってから薨去する宝暦元年(1751)まで、孫の家治を常に傍らに置いて、将軍の心得を教えた。家治九歳から十五歳まで、吉宗は病弱で暗愚(言語不明瞭で側用人の大岡忠光しか理解できなかった説有り😓)な嫡男の家重よりも孫に期待をかけていたという。
 家治は祖父に絶大な尊敬を寄せ、あらゆる面で見習った。鷹狩を好んだり極度に品行方正だったのは吉宗の感化である。
 家治と五十宮の夫婦関係は良好で仲睦まじかったという。結婚して、一年半後の宝暦六年七月二十一日、五十宮は西の丸で千代姫を出産した。御台所にあたる者が江戸城中で出産するのは、なんと二代秀忠の正室お江与以来百五十年ぶりである😳。江戸城大奥がいかに異常な空間であったかがわかる。
 五十宮と千代姫は百日過ぎて白小袖から色小袖に着替える「色直し」の祝儀を無事に済ませ、翌日は「宮参り」なので西の丸大奥では賄頭(まかないがしら)が立ち会って祝いの餅を大量についていた。
 その最中に雄鶏が飛んできて臼の中に落ち、それを杵で叩き潰すという凶事が起きた😱
宮参りに障りがあるのではと恐れたが、はたして翌朝、八代洲河岸の林大学頭屋敷から出火🔥があり、丸の内大火となった。
 この火事騒ぎで老中ら幕閣のほとんどが熨斗目・裃の礼服ではなく火事装束で登城したので、山王社の宮参りは延期になった。
 千代姫は翌年四月十二日、二歳で早世するが、大奥女中たちは、宮参り前日に鶏を叩き潰した禍々(まがまが)しい出来事を思い出し、「千代姫様の夭逝は大納言様(家治)が鷹狩を好まれ殺生されるからだ」とのヒソヒソ話が家治の耳に達し、家治の鷹狩は間違になったという(📖「頃日全書」)。
 家治が父家重に代わり十代将軍となったのは宝暦十年九月二日で、五十宮は家治とともに西の丸から本丸へ移り、「御台様」とよばれた。朝廷からは従三位を賜った。
 翌き十一年八月一日、五十宮は次女・万寿姫を出産。このとき無事の出産をする役目に一万石を加増されてまもない当時四十三歳の田沼意次がいた。既に家治の側近として重用されはじめていた。
 さらに同十二年十月十五日には、側室のお知保の方に待望の男子(竹千代)が生まれた。そして二ヶ月後の十二月十九日にも、側室お品の方に次男・貞次郎が生まれた。お品の方は五十宮が京都から伴ってきた公家の娘で、上臈御年寄・松島の養女となっていた。
(今回のドラマでは栗山千明が演じているが「大奥総取締」ってあるのよ....そんなにいっぱい居ないのよ実際に大奥総取締って...っていうか、そんな役職も実のところ大奥には無いし「総取締的」が正しいんよ。しかしまぁ、好きだねぇ~😩「大奥モノ」が作られると必ず大奥総取締ってえのが出てくる。大奥作った春日局と幕末の瀧山だけでしょ、そう呼ばれたのは)
 御台所は側室が生んだ子どもの養母になるので、五十宮は一挙に三人の子の母となったが、貞次郎は3ヶ月後に早世した。
 万寿姫は健やかに育ち、将軍家の生育儀礼の祝を重ね明和五年(1768)四月二十三日には、八歳の万寿姫と御三家筆頭・尾張家の徳川治休(はるよし)との結納が取り交わされた。
 ところで、前年五月、大奥で前代未聞の出来事が起きた。前将軍家重の忌日で五十宮は御年寄に増上寺への代参を命じた。この一行の中に大奥の外交官ともいえる役目の「表使(おもてづかい)」が、御霊屋(みたまや)の僧侶と心中したのである。
 心中に至るには、二人の心身上の深いやりとりがあった筈だが、その者の名も僧侶の名も伝わらず事件があったことも秘匿されたので五十宮の耳には届かなかったであろうが、松島・高岡・浦尾らの御年寄が掌握していた当時の大奥の乱脈ぶりの一端がうかがわれる。
 📖「徳川実記」によると、五十宮はよく大奥から出て吹上御庭を散策していたという。大気にふれ、木々の緑や草花に見入るのを、気持ちの転換として好んでたという。
 そんな明和八年(1771)の八月七日、同腹兄の日光門跡公啓法親王が突然大奥を訪れ、実妹の五十宮に対面している。実は重病の妹を見舞ったという。二日後、世子家基から公啓法親王に病気平癒の祈祷が依頼されている。
 五十宮の病勢は急激に悪化し、連日のように御三家・御家門が見舞ったが、快方に向かうことはなく、二十日午の下刻(午前十一時頃)薨去された。享年三十四(当時は数え年なので三十五)であった。
 翌二十一日、五十宮の墓所は、寛永寺の高巌院(家綱正室)と証明院(家重正室)の霊牌所と並んで建てられることが決まり、二十九日には、『心観院殿』の追号が決まった。
 心観院の霊柩が百八人の仕丁に担がれて江戸城平川門から寛永寺に送られたのは九月十日で、法要を主導したのは宮の六歳年上の同母兄の公啓法親王であった。
 宮の薨去後、万寿姫は尾張家に嫁ぐことなく、安永二年(1773)十三歳で本丸大奥で亡くなり、また同八年には十八歳になっていた世子家基も急死した。
 江戸城は次期将軍をめぐり、御三家・御三卿、それに田沼意次・松平定信の諸勢力が、主人である御台所が欠けた大奥をまきこんで、激しい暗闘の場となるのである。

🔶五十宮倫子
 明和八年辛卯八月廿日御逝去、御年三十五、
東叡山(寛永寺)に葬送、九月廿三日贈従二位、
天明三年辛卯八月三日十三回忌時贈従一位。
法号は心観院殿浄池蓮生大姉
🔶千代姫
 宝暦七年丁丑四月十二日御早世。上野凌雲院(現在の東京文化会館と西洋美術館が立つ場所にあった)に葬送。
法号は華光院殿圓常清芳大童女
🔶万寿姫
 安永二年癸巳二月廿日御逝去。東叡山に葬送。
法号は乗臺院殿蓮界寳巌大姉

<出典>
📖「歴史読本2008年七月号/将軍家の正室」(新人物往来社刊)
📖「別冊歴史読本/徳川家歴史大事典/徳川家女性総覧」(新人物往来社刊)
📖「柳営婦女伝双」(名著刊行会刊)
📖「三田村鳶魚 江戸武家事典」(稲垣史生編/青蛙房刊)






次回以降の人物像編✍️
その2️⃣【お品の方】─西野七瀬
その3️⃣【お知保の方】─森川葵