2024 NHK大河ドラマ【光る君へ】
 物語の中心...紫式部(吉高由里子)と藤原道長(江本佑)

 吾輩的には『江戸オタク』なので平安時代は基本的にそう詳しくはござりませぬので悪しからず😓
 という事で先ずは藤原氏の成り立ちから☝️



 🔵藤原氏の始まり
 中臣鎌足(614~69)は大化の改新の功によって、臨終の床で天智天皇から大織冠(たいしょくかん=後の正一位に相当する最高の位階)と「藤原」の姓を賜った。最大の氏族に発展していく藤原氏はここに始まる。この藤原姓は鎌足の子の不比等の子孫に限られ、他は中臣姓を称し、神事の中臣、政治の藤原の道が開かれた。不比等の四人の男子は、南家・北家・式家・京家の四家に分流する。
不比等の姉妹は天武天皇の后となっているから藤原氏と天皇家との婚姻の初例ではあるが、ここからは天皇は出ていない。その意味では不比等の娘の宮子が文武天皇后となって聖武天皇を生み、この天皇に宮子の妹・光明子(こうみょうし701~60)が入り、そこに孝顕女帝(重祚<ちょうそ=再任の意>して称徳)が誕生しているから、名実と共に天皇家との婚姻関係はここに始まった。
 藤原四家のうち南家では、八世紀中期に政権を掌握した仲麻呂(706~64)が殺されてから振るわなくなり、式家は桓武天皇との深い関係により長岡京から平安遷都の時期に活躍するが、九世紀初めに起きた「薬子(くすこ)の変」により威勢を失った。
 式家と入れ替わるように登場するのが「北家」である。「薬子の変」の直後、嵯峨天皇の信任を得て初の蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢された冬嗣(775~826)は、翌年に参議、つまり公卿(「公=太政大臣/左大臣/右大臣」➕「卿=大納言/中納言/参議/三位以上の朝官」の称)となった。
 その後、蔵人頭は公卿への登竜門と見なされた。そして八年後大納言となり、政界の頂点に立ち、やがて左大臣に至る。娘の順子(じゅんし)は仁明天皇の女御となって道康親王を生んでいる。この冬嗣が藤原北家発展の基礎を築いた。
 冬嗣の次男・良房(804~72)は、仁明天皇の即位で蔵人頭となり、翌年31の若さで参議、翌年七人越えで権中納言(ごんのちゅうなごん=「権」は非常任、或いは仮の意)、五年後には中納言と昇進を重ね、承和九年(842)、皇太子の恒貞親王を廃して道康親王を皇太子に就けることに成功(承和の変)。この皇太子が即位して文徳天皇となると、妻で嵯峨天皇鐘愛(しょうあい=大切にして可愛がるの意)の娘・源潔姫(みなもとのきよひめ/賜姓皇族)所生の明子(あきらこ)を入れ、そこに生まれた第四皇子・惟仁親王を九ヶ月で皇太子とし、文徳天皇の崩御(32歳)に伴い九歳で清和天皇とした。七世紀以降において十歳未満の即位は初めてで、藤原氏の摂関体制と幼帝の出現の道を開いた。外孫の即位で天皇の外戚としての地位を獲得した良房は、古来の名門貴族である大伴氏を貞観八年(866)の応天門の変で失脚に追い込み、人臣初の摂政となって天皇の政治を後見した。
 この年に良房は、公卿の末席にいた後継者の養子・基経(836~91)を七人を飛び越して中納言に抜擢している。九世紀中期から明治維新まで千年の歴史をもつ摂関が藤原北家の独占となる淵源(えんげん=おおもとの意)は良房にあったといえる。
 基経は清和天皇の女御であった妹の高子が生んだ陽成天皇が九歳で即位すると摂政となった。しかし天皇は長ずるにつれ粗暴な振る舞いが多くなり十七歳で廃位され、替わって擁立された五十五歳という平安期で最高齢の光孝天皇は在位四年で崩御。次の宇多天皇の即位に伴い基経は関白(初例)となるが、その詔(みことのり)をめぐり阿衡の紛議(基経と宇多天皇の政争)が起きた。この事件で譲歩を余儀なくされた宇多天皇は、基経の死後、長男の時平を摂関とせず、その勢力を抑えるため菅原道真を抜擢して天皇親政を行い、醍醐天皇へと継承した。ところが、時平によって左遷された道真が、配所の大宰府で亡くなると、時平の怪死(36歳)、皇太子の相次ぐ死、宮中への落雷など不吉な事👈(歌舞伎『菅原伝授手習鑑』のクライマックスシーン😅)が続き、それらは道真の怨霊の祟りだと恐れられた。時平亡き後、弟の忠平(880~949)が政権を掌握し、醍醐天皇の皇子の即位(朱雀天皇8歳)に伴って摂政となり、ここに40年間途絶えた摂関が復活した。
 忠平の妹・隠子(おんし)が醍醐天皇の中宮となり朱雀・村上天皇を生んでいたので、死までの二十年間も摂関でいられた。藤原氏の栄華のもとを開いたのは忠平と📖「大鏡」に書かれている。
 忠平の死後、村上天皇は親政をして摂関を置かなかったので、17年間の摂関空白期が訪れた。
村上天皇の跡を病弱な冷泉天皇(18歳)が即位した時点で外祖父の藤原師輔は既に他界していたので大叔父の実頼(900~70)が摂政となったが、その間に「安和(あんな)の変」が起き廟堂の頂点にあった左大臣・源高明(みなもとのたかあきら=醍醐天皇皇子の皇族賜姓源氏)が大宰府に左遷。この事件は賜姓源氏の威光を警戒した藤原氏の陰謀事件と見られ、藤原氏の他氏排斥の最後の事件と位置づけられ、以降は政権の座をめぐる肉親の争いへと進む。
 円融天皇の摂政であった伊尹(これまさ)の病死のあと、兼道・兼家兄弟が摂関を巡って激しく争った。同母兄弟ながら官位とも弟の兼家が上席だったので関白になる可能性が高かったが、関白になったのは兼道であった。そうさせたのは天皇の母である皇后安子(あんし)の遺書とも、伊尹の遺書ともいわれている。ここで兼家は忍従の日々を余儀なくされ、さらに五年後、兼道は病床の中で弟の兼家ではなく、従兄弟の頼忠を関白に指名して亡くなった。天皇と遠縁ということに加え温厚な人柄の頼忠は、兼家を元の職に復して協調政治をめざした。(👈昨日の『光る君へ』の初回がココ)この後はネタバレになってしまうので...😓
 第1回は、まひろ(紫式部)の幼少時代を演じた
落井実結子ちゃんがみんな持って行っちゃったよね。11歳にして女優歴8年だから当然と言えば当然でしょうか...😅
 一昨年の『鎌倉殿の13人』でも源頼朝と北条政子の間に生まれた大姫(南沙良)の幼少時代の役で出てました。
 それにしても玉置玲央演ずる兼家(段田安則)の次男・道兼の三郎(後の道長)に対する虐待は何なの!?ってくらい酷かったですなぁ😩嫡子と庶子という間柄なら解らないことはないけど、同じ母親(時姫<三石琴乃>)から生まれた兄弟なのに...ねぇ~😓
 因みにこの主人公まひろ(紫式部)の父・藤原為時は藤原北家良門流で、三十六歌仙の一人「堤中納言」といわれた藤原兼輔の孫・刑部大輔藤原雅正の三男で極官は正五位下越後守。

藤原道長が頂点に立った頃に詠んだという
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」
 は、出て来るよね、やっぱし😅


出典/参考文献
歴史読本「天皇家と日本の名家・名門」2008年10月号(新人物往来社刊)

追伸.
 藤原良房正室の源潔姫(母は嵯峨天皇女嬬当麻氏)の異母弟が河原左大臣源融(賜姓源氏/母は嵯峨天皇宮女大原全子)。この源融(みなもとのとおる)が紫式部の『源氏物語』における光源氏モデルの最有力説の人物。もちろん藤原道長説や融の異母兄源信(みなもとのまこと)説などもあるが...。
光源氏の生い立ち(天皇の子で賜姓源氏になった人物)で且つ物語の舞台である光源氏邸(六条院)⇔源融(河原院)。また宇治平等院は融の別邸跡。この融説になぜ吾輩が力が入る💪かというと、我が「渡辺」の遠祖だからに他ならない。
😤嵯峨源氏融流渡辺氏族😅
 果たして今回のこのドラマで紫式部(実名は伝わっておらず「まひろ」は今回の脚本の創作。宮中の女官だった事に加え、嫁ぎ先が藤原宣孝及び父藤原為時が式部大丞だった為に女官「藤式部」と呼ばれていたらしい)、果たして藤原道長をモデルにして源氏物語📖を執筆✍️するのか、それとも有力説の源融をモデルにするのか実に興味深いとこではある。当時としてはエラい晩婚だったまひろのお相手(旦那さん)藤原宣孝は初回に出てきた佐々木蔵之介☝️