【織田信雄(おだのぶかつ)】
永禄元年~寛永七年(1558-1630)
 信長の次男。母は兄の信忠、妹の五徳と同じ信長の側室・生駒吉乃(いこまきつの)。幼名を茶筅丸。永禄十二年、父信長の伊勢国司の北畠家攻略戦の和睦条件として北畠具房の養嗣子となり、具房の妹・雪姫を娶り、元亀三年元服して北畠具豊と称した。
 天正三年(1575)に北畠家の家督を継ぎ信意と改名。同五年、兄信忠の下で紀伊征伐に参戦。同七年、信長に無断で起こした「第一次天正伊賀の乱」で大敗を喫し、父信長に親子の縁を切ると叱責された。同九年信長の「第二次天正伊賀の乱」に加わり伊賀侵攻し、これを平定。乱ののち伊賀三郡を領する。
 本能寺の変後、清洲会議に於いて信意は、兄信忠亡き後の織田家の後継者になろうと画策するも、結局織田家当主は信長の嫡孫・三法師(のちの秀信)となり、信意は異母弟の神戸信孝と共に後見人となった。信長の遺領配分で信意は尾張・伊賀・南伊勢で100万石を相続し、織田姓に復し、名を信勝、次いで信雄と改めた。
 同年十月、羽柴秀吉・惟住長秀(惟住-これずみ-は朝廷から丹羽長秀が下賜された姓)・池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議の決定事項を反故にし信雄を当主として擁立し主従関係を結んだ。また家康もこれに賛同した。 
 天正十一年、台頭して来た秀吉と神戸信孝と信孝を擁する柴田勝家らが争い「賤ヶ岳の戦い」が勃発、信雄は秀吉方に属した。
 弟・信孝の岐阜城を攻め降伏させ、護送中に切腹させた。
 また一説に浅井三姉妹を後見して面倒を見たのは秀吉ではなく信雄であると言われ、三姉妹の末妹・江(のち二代将軍徳川秀忠の継室)を佐治一成に嫁がせたのも秀吉ではなく信雄であったとされている。
 戦後、三法師秀信の後見として安土城に入城するも秀吉に退去させられ、秀吉との関係が悪化、翌十二年正月、秀吉と坂本城で会見するも決裂し、家康に接近して同盟関係を結ぶ。
 同年三月、家康と相談して、秀吉に内通したとして三人の重臣を誅殺し、秀吉に宣戦布告(小牧長久手の戦い)。 
 緒戦の羽黒の戦いで徳川軍が池田恒興・森長可などを討ち取るも、伊勢で誅殺した三人の一族が造反、さらに秀吉の計略で九鬼嘉隆、秋山直国らが謀反に及び、羽柴秀長、蒲生氏郷、藤堂高虎ら羽柴勢の侵攻を受け、伊賀と南伊勢に加え北伊勢の一部を秀吉へ割譲することを条件として家康に無断で、秀吉と単独講和を結び、信雄を擁した家康は秀吉と戦う大義名分を失い軍を引いた。
 以降、信雄は秀吉に臣従。天正十八年、娘の小姫を秀吉養女として家康の三男・秀忠に正室として嫁がせた。秀吉の九州征伐後内大臣に任官。清洲城を居城していたが、小田原征伐にも従事し武功を上げた。戦後の論功行賞で関東に移封となった家康の旧領へ移封を命じられたが、父祖の地・尾張を離れ難くこれを拒み、激怒した秀吉から改易され下野烏山に流罪となり出家して常真と号した。その後、流刑地を秋田八郎潟湖畔、次いで伊予国へと流されたが、文禄元年(1592)の文禄の役の際、、家康の仲介で赦免され秀吉の御伽衆に加えられ大和国内に1万8千石の領地を与えられた。又、嫡男の秀雄は越前久野5万石を与えられた。
 関ヶ原の合戦に於いては西軍とみなされ、戦後秀雄共々二度目の改易の憂き目を見るも元和元年(1615)家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡など5万石を与えられ、以後は風雅な庭園・楽山園の作庭や養蚕などの産業育成に力を注ぎ、四男の信良に上野国小幡領2万石を分知し、信雄は京都に隠居し悠々自適の生活をおくり、寛永五年の三代将軍家光の茶会🍵にも招かれた。
 同七年、京都の北野邸で没した。享年七十三。
信長より20年近く、また秀吉より10年近く長生きした。実質上の隠居料の大和宇陀の領地は五男高長が相続し、のち丹波柏原織田家として明治維新を迎えている。
 誠に蛇足ながら、令和五年の現在で活躍する坂道グループの一つ☝️日向坂46の由来である港区三田の「日向(ひゅうが)坂」は江戸初期、毛利日向守就隆の屋敷があった所からの命名だが、この屋敷は毛利家一代の直ぐ後、丹波柏原藩織田家の上屋敷として幕末まで続いたが、織田家当主の受領名が概ね山城守だったワケで、もしかしたら山城坂46だったかも知れない...😆
...ってことは無いな。それはどうも総合Pの秋元康氏の乃木坂・櫻坂(欅坂)の発祥地と同様、日向坂も「毛利元就の三本の矢」から来ていると吾輩は思っているので...☺️
 
👇ってなワケで織田信雄の系譜を追加しとく

信長の末弟・有楽斎(うらくさい)長益の住んだ江戸屋敷に因んで東京・銀座の『有楽町』ができたんだけどご存知でした?☝️☺️

👈本家の
天童織田家。