石麻呂に 我れもの申す 夏痩せに
良しと言う物ぞ 牟奈岐取り召せ
(📖万葉集 大伴家持)
※牟奈岐=むなぎ=うなぎ

 万葉集にも歌われているように、この時代から夏バテ対策にはうなぎを薦めている。

 時代は下って、お江戸の大クリエイター平賀源内先生のキャッチコピー✍️
『土用丑の日うなぎの日』
から大流行したという鰻の蒲焼き☝️
 元々は土用の日「う」のつくものだったら何でも良かったのを、知り合いの鰻職人のたっての頼みで件(くだん)のキャッチコピーを考えたとか...。それまでは鰻の蒲焼きといえば、こんな形だったワケで...😅
これが「蒲の穗」に似てるところから
「蒲焼き」という名になったとか。
 江戸初期は大坂や堺から入ってくる所謂「下り醤油」が中心だった醤油も、今の千葉県を中心に生産される醤油の質が向上し、江戸人の嗜好に合う濃口醤油が開発された事で江戸の食文化が画期的に変わった。
 曲亭馬琴(本名:滝沢解-たきざわとく-)も大の鰻好きだったというが、上方旅行をした時の旅行記で、江戸人として大坂の鰻をこき下ろしている😓
「鰻は小串のみにて、京の若狭うなぎに劣れり。大庄といふ店、うなぎを売ること夥(おびただ)しかりよし。故ありて店をしまいぬ(閉店)。その外(ほか)料理店数軒あれど江戸人の口に合わず」と記しいる。(地元民にしてみれば大きなお世話だけど😅)
 ひとくちに「鰻」といっても蒲焼きは上等で、そういえば、吾輩の白金台高級出前持ち🚗時代の店は元々は鰻屋だったので符丁「丁○蒲」(5000円の蒲焼き)は、下に熱湯を入れた2段式の重箱だった。丑の日は店頭販売も大賑わいで、この日は、六人いる吾輩たち従業員も一人30数軒の鰻重の出前をこなした。ツの字からカ○(800~7000)の筏まで🚗であちこっちてんてこ舞い。夜食はツのを字だけど、フッカフッカのモノホンの鰻重が喰えた😄

閑話休題

 因みに「江戸前」という言葉は、この鰻のことで、米のとぎ汁など栄養たっぷりの生活用水で育ち江戸の前海で獲れた脂の乗った鰻の事を「江戸前」って言ったのが初め。
 その上等な蒲焼きに対して、鰻丼略して「うな丼」の方が安価で庶民的だった。
文化年間(1804~1818)江戸・堺町の芝居小屋の資本主・大久保今助さんが食事の度に蒲焼きを取り寄せていたが、仕事が忙しく冷めてしまうのが気に入らないって事で、なんかいい方法はないかといろいろ考えた挙げ句、丼に熱い飯と焼き上げた蒲焼きを一緒にして蓋をして持って来て貰う事を思いついた。これが大成功\(^-^)/他の人も真似をしだして大繁盛、その結果...

📖『俗事百工起源』(宮川政道著)に
「今はいずこの鰻屋にしても、丼うなぎ飯の看板なき店はなし」
というほど広まったという。
今助さん😄


 神楽坂の志満金と池之端の伊豆栄が俺ら(江戸っ子風で)的には飛車角かな...って。
 2023年の丑の日の鰻はマックスバリュで買った1580円の鹿児島産鰻をフライパンで酒蒸しにして
喰った。ばか旨だった😄