【今川氏真(いまがわうじざね)】
天文七年~慶長十九年(1538-1615)
 今川義元の長男として生まれ幼名は龍王丸、通称は彦五郎。母は武田信虎の娘・定惠院、つまり信玄の実姉であり、信玄とは叔父甥の仲☝️
官位は従四位下上総介、刑部大輔、治部大輔。
 永禄三年(1560)五月十九日、尾張に侵攻した駿府の太守・今川義元が桶狭間合戦で織田信長に討たれ第12代今川家当主となる。翌四年室町幕府相伴衆の格式に列す(相伴衆→元来は三管領家に継ぐ家格もこの時代は有名無実?😥)。
 永禄五年(1562)、松平元康は織田信長と清洲同盟を結び西三河をほぼ統治、これに対し氏真は東三河の国人領主に対して新たな人質を要求したところ、松平側に付く国人領主と今川側に残る国人領主との間で抗争が拡大(三州錯乱)。二月氏真は自ら兵を率いて出兵牛久保城へ向かうも元康に撃退され、永禄七年六月、今川方の東三河の拠点吉田城が開城し、今川氏勢力は三河から駆逐される(三河平定)。因みに元康は永禄六年に義元から偏諱を受けた「元」の名を捨て「家康」に改名している。
 同十年(1567)五月に駿府を訪れた里村紹巴(さとむらしょうは=当時の高名な連歌師)が訪問の際に記した📖「富士見道記」では、盛んに連歌の会や茶会🍵が行われていた事が記されていてまだまだ栄華を誇っていたと思われる駿河の中心地・駿府。
 しかしその年事態が一変、氏真の叔父・武田信玄は、信玄の長子・義信に嫁いだ氏真の妹を駿府に送り返し父・義元との駿相甲同盟を一方的に破棄し手切れとなる。これに対し氏真は舅の北条氏康(氏真の妻・早川殿は氏康娘)と共に甲斐国に対する「塩留(しおどめ)」を敢行。因みにこの氏真の策により塩不足が顕著となった甲斐に信玄の宿敵・上杉謙信が塩を送ったという伝説があり、
「敵に塩を送る」という諺が生まれた☝️😏
 翌十一年、信玄は家康と組んで駿河に侵攻し、今川氏の居城駿府城が炎上、氏真は掛川城に退くも家康の軍勢に包囲され掛川城を明け渡して退去し、以降北条氏の庇護下で小田原に住すも、駿河の名目的支配権も氏康の跡を継いだ氏政の子・氏直を養子とすることにより北条氏政に奪われる形となった。
 元亀二年(1571)、北条氏が同盟関係を上杉氏から武田氏に変えた事に依り、氏真は北条氏の庇護を解かれ放逐され、名実共に戦国大名としての今川氏滅亡となったが、以降家康に保護される生活を送ったと伝わり、また一時所在不明となるも家康の元を離れ出家。「宗◼️(第4水準漢字→俺らの📱じゃ変換できねぇ😩→門構えに言<ぎん>→そうぎん」と名乗り上京、公家などと交流して歌会や蹴鞠などに日々を過ごしたとされている。
 天正三年(1575)信長に拾われ御伽衆(おとぎしゅう=大名の側で話し相手や書物の講釈等をした人物)になったとも伝わるが真偽は不明。
 慶長十七年(1612)家康から近江国野洲郡長島村(現:滋賀県野洲市長島)に500石を安堵される。
 それに先立つ慶長三年(1598)、氏真の次男・品川高久が秀忠に出仕、同十六年(1611)には氏真の長男・範以の遺児・範英が直房と改名して同じく秀忠に出仕。正保二年(1643)、直房は家康の東照大権現の宮号宣下の際の使者を務めた功で武蔵国下井草村(現:杉並区)、上鷺宮村(現:中野区)、中村(現:練馬区)に五百石を加増されて以降、禄千石の高家旗本として江戸時代を生き抜き維新を迎えている。高家とは江戸幕府の儀式・典礼を司る役職で禄高は低いが官位は幕府老中の従四位下侍従よりも高位で概ね従四位上左近衛少将が多い。武田信玄の末裔や足利将軍家一族なども高家旗本。あの「吉良(清和源氏足利氏族)」さんも☝️
 吉良さんといえば、先週の🖥️『どうする~』で、元康に攻められた今川方の国人領主・吉良義昭、この義昭の兄・義安の家系から「元禄事件」の吉良上野介義央が出ている☝️😏
 氏真は慶長十九年(1615)十二月二十八日、江戸で77歳の生涯を閉じた。氏真の弟・一月長得(いちげつちょうとく)を導師として氏真の四子・澄存が開基の市谷万昌院で葬儀が行われ同寺に葬られた。のち万昌院の牛込移転に伴い、妻の早川殿の墓と共に、高家旗本今川家の知行地である武蔵国多摩郡井草村(現:杉並区今川二丁目)の宝珠山観泉寺に移された。

 氏真の時代で戦国大名としての今川氏は滅亡させてしまったが、文化人として持ち直し、氏真の末裔は「家」として連綿と続き、21世紀の現在も残しているのである。

👇は氏真の孫・今川直房が下賜された領地に建てられた今川家菩提寺の観泉寺(曹洞宗)

本堂の裏にある『今川氏累代墓所』は
東京都指定旧跡
 以下は、吾輩が2012年10/26に🆙✍️した同墓所を訪れた時のブログ内容を吾輩の別ブログ『七面堂九齋のしちめんどうくさい話』から引っ張り出して来た☝️
 宝珠山観泉寺は、戦国武将今川義元の子、今川刑部大輔氏真を開基として、中野成願寺五世・葉山宗朔の法弟・鉄叟を開山として慶長二年(1597)に下井草村の観音屋敷という地名が残っていた辺り観音寺という名称で開創。
 正保二年の氏真の孫・今川直房の東照大権現宮号宣下の際の功により五百石を加増された事により、寺観を整え、さらに直房の姉・観泉院(戦国大名大友宗麟の曾孫・大友義親妻)の寄進により伽藍を現在地に再建、寺号も『観泉寺』と改め、将軍家より朱印状を下付。
 寛文二年(1622)、氏真の墓所を牛込万昌院(現在の新宿区筑土八幡神社の隣にあった)から改葬して以来、今川家累代の菩提所となった。本堂の真裏にある都指定旧跡『今川家累代之墓所』には、氏真の宝篋印塔、直房の父で氏真の子・板碑形墓碑など、明治20年没の高家旗本今川家最後の当主・範叙まで20基の墓碑が整然と並んでいる。
 全20基の内、入口から左右に四基ずつ全て卵塔型(無縫塔)。正面に12基。左から
 「卵卵笠卵宝板板宝宝宝宝卵」
と並んでいるが五基の宝篋印塔は総じて墓石の磨耗が著しく読み取る事が困難😥なので墓所内の卒塔婆立ての卒塔婆を読む事に。
「中興 観泉院殿繁室慶公大姉」は直房姉
「浄岑院殿松山壽公大居士」は直房
「蔵春院殿天安列性大姉」は氏真妻の早川殿
「仙志院殿豊山泰英大居士」は氏真
と、判明したがどれがどれだかは😢おそらくこの四名は中心にあると思うけど....。

👇
【2023-12/12 NHK-Eテレでoaされた『先人たちの底力 今川氏真の生き残り術』から氏真の墓碑が判明💡上記写真の真ん中2つ並んだ板碑型墓碑の向かって右側の宝篋印塔型墓碑二基。板碑型の隣が氏真夫人の早川殿、そしてその隣が氏真だという話。長年の痞(つかえ)が取れた感大😄😅😆】

【】以外の本文は2023-1/30に挙げたブログ内容。

 ☝️というブログ内容。これにプラス、杉並区和田にある長延寺(旧市谷)にも「今川家累世之墓」が無縫塔が一基残っているが墓石右側の「今」の字の「ラ」が逆なのは何故!?ってある。←これは今でもわからない😖けど....。

っていうか、「江戸オタク」の「オタク」らしい長ったらしい✍️書き様で今さらながらに笑っちまう俺らのブログw も少し簡略にできねぇかえーニヤリって話。

【】内2023-12/13✍️