【源実朝】
建久三年八月九日~建保七年正月廿七日
(1192.9/17─1219.2/13)
 幼名を千幡。鎌倉幕府第三代将軍。法名を
『大慈寺殿正二位丞相公神儀』墓所は鎌倉の亀谷山寿福寺、高野山宿坊の一つ金剛三昧院。
 武士として初めて右大臣に任ぜられた。室は公卿の坊門信清の娘・西八条禅尼(本覚尼)。諱は伝わっておらず実朝の死後、京に戻り出家してからの名だけが伝わる。
 建保七年正月廿七日、鶴岡八幡宮では実朝の右大臣拝賀式が行われ、式を終えた実朝が石段にさしかかると突然大銀杏の陰から甥(実際は政子の命で実朝の猶子)で二代将軍頼家の次男・公暁(👈吾輩たちが習った頃は「くぎょう」だったけど、最近では「こうぎょう」或いは「こうきょう」説が有力で、三谷幸喜氏は「こうぎょう」を採用)に襲われ首級を奪われた。首が持ち去られた実朝の遺体は勝長寿院に葬られ、奪われた首は一時不明となったが、探索を命じられた三浦義村の家人・武常晴に依って発見された。が、何故か?主人の義村のところへは持ち帰らず、当時義村と仲の悪かったとされる波多野忠綱を頼り埋葬したと伝わり、それが神奈川県秦野市東田原にある秦野市指定史跡の
『源実朝公御首塚(みしるしづか)』
 波多野忠綱は、源実朝の厚い帰依を受けていた僧・退耕行勇を招いて首塚の近くに金剛寺を建立して供養した。その際に元々の木製五輪塔を石造りに変えたとされている。尚、その木製五輪塔は鎌倉国宝館に収蔵されている。
 源実朝は歌人としても知られ、歌道の師は藤原定家。小倉百人一首にも「鎌倉右大臣」の名で☝️

世の中は つねにもがもな なぎさこぐ
あまの小舟の 綱手かなしも

の和歌が載せられている。

 江戸時代、松尾芭蕉が弟子の木節に「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたという。

 尚、公暁は北条政子の命で実朝の猶子となったが、同じ頼家の忘れ形見で娘の「竹御所」は、同じく政子の命で実朝の室・坊門氏(西八条禅尼)の猶子になった。竹御所は29歳の時に、13歳の鎌倉四代将軍・藤原頼経に嫁いだ。四年後、当時としては異例中の異例33歳で懐妊し、後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、難産の末に男子を死産、竹御所も死去し、此れにより源頼朝直系子孫が絶えた。
 藤原定家の日記📖「明月記」に依ると、竹御所の訃報がもたらされた鎌倉武士たちは、源氏棟梁の血筋が断絶したことに激しく動揺し、在京の御家人はこぞって鎌倉に下ったという。定家は、この件について「平家の遺児たちを悉く葬ったことに対する報いであろう」と述べている。竹御所は比企一族の菩提寺・妙本寺に葬られた。

源実朝役の
👤柿澤勇人 1987.10/12 175㌢
 曾祖父の清元志壽太夫(浄瑠璃)、祖父の清元榮三郎(三味線)は共に人間国宝。2007年劇団四季に入団し、2009年の退団後も主にミュージカル俳優として活躍。所属事務所はホリプロ。