【畠山重忠】長寛二年~元久二年 (1164-1205)
 桓武平氏良文流畠山氏。板東八平氏の一つ、秩父氏の一族で武蔵国男衾郡畠山郷(埼玉県深谷市畠山)を本拠とした。時政の女婿である。
 文治二年(1186)源義経の愛妾静御前が頼朝の命で鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露した際、銅拍子(中央が椀状に突起した青銅製の円盤を両手で打ち合う打楽器)を打って伴奏を務めたという。
 鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人粛清の一つ「畠山重忠の乱」...
 きっかけは、京都においての重忠の子・重保と時政の娘婿平賀朝雅との口論。📖「島津文書」(※)によると一時和解したというが、これを根に持っていた牧の方が更に時政に讒言して重忠・重保父子の討伐を強く願い、押しきられた時政が同じ娘婿の稲毛重成に命じ鎌倉殿の御所に出向かせ討伐を願い、源実朝が追討令を発布したという。
 畠山重忠・稲毛重成・平賀朝雅は時政の娘たちを介した義兄弟の間柄。当時はそれがいかに有名無実だったかよく判る関係だわね😫。しかもこの事件がきっかけで三人が三人とも、それぞれの人生を終えているワケで...😩
 元久二年六月二十二日、鎌倉にいた畠山重保は謀略を以て殺され、鎌倉に出頭を命じられた重忠は百数騎ほどの家来を連れて武蔵国畠山の菅谷館を出て鎌倉に向う途中、数万余の幕府軍と武蔵国二俣川で遭遇して合戦となり打ち討られた。
(📖「愚菅抄」では自害)


👆昭和に作成された史跡案内板。
👇近年、新しく作成された旭区観光協会の史跡案内板。
 ところで、ドラマの中で🖥️時政が実朝に白紙を出して✍️
「ここに花押(※)を書いて下され」とか言うセリフだけど、まぁ~三谷解釈でそれはそれでいいんだけど、何やら何も書いてない白紙の書類に実印押させたり署名させたりさせる「典型的悪党ニヤリ」のやり方で少々ガーン感が否めなかった吾輩の感想w
 後日談として、この畠山重忠謀殺にはもともと弟・時房と共に反対だった義時(最近の研究で「江間小四郎」と名乗っていたように北条宗家の分家のような形で執権時政には逆らえなかった説有り)が、首桶に入った重忠の首を見て悲嘆にくれ
「謀叛を企て事既に虚誕」「讒訴に依て誅りくに逢へる」と時政の所行を糾弾したと📖「吾妻鏡」には記され、この事件をきっかけに、将軍実朝を廃して平賀朝雅を将軍に画策する(🖥️ドラマでは違う解釈<後鳥羽上皇と側近のヒソヒソ話の中で朝雅が執権になれば...etc…云々😅>なのでお見逃しなく)「牧氏事件」が起こり、事前に察知した政子・義時の姉弟により、時政・牧の方は失脚して伊豆に流され、朝雅は都で誅殺されることとなる。
 因みに、この朝雅の妻...寡婦になった時政の娘は、のちに足利義兼の庶長子・義純に再嫁し、桓武平氏良文流秩父氏族の名門畠山氏は消滅し、清和源氏のひとつ河内源氏のひとつ足利氏の一門として源姓畠山氏として名跡を継承。のちに室町幕府における足利一門の中で別家扱いの足利尾州家(武衛家👈ぶえいけ😅どっかで聴いた事有りますでしょw 「武衛」は兵衛府の唐名)は代々兵衛督(長官)か兵衛佐(次官)に任ぜられ、三菅領家のひとつとなり、斯波家に次いで高い序列に列せられ細川家など他家の家臣筋分家とは異なる待遇を足利将軍家から受けることとなる。紀伊及び越中の守護(紀伊守/越中守)を概ね務め、分家は能登の守護(能登守)を務めた。
 江戸時代においては、尾州畠山、能登畠山共に高家旗本となり存続。維新後、尾州畠山家の畠山基永が足利に復姓して士族に編入、能登畠山家は畠山家のまま、一時「男爵」叙爵の話もあったが、結局こちらも士族として編入された。
 尾州畠山家は畠山貞政が家臣に放逐されて家名が断絶したが、貞政の子・政信が片桐且元の娘婿になり片桐家重臣を経て豊臣秀頼に仕え、のち豊臣家を離反して家康に従った且元と共に徳川家に仕え秀忠の近習となり300石。2代基玄は従四位上民部大輔に叙任し、再三の加増で5000石となり、一時、高家から外れて将軍綱吉の側用人まで務め更に奏者番(大名職で通常は寺社奉行を兼ねる役職)にまで登りつめる。罷免後は元の高家となり元禄九年高家肝煎(赤穂事件の吉良さんと同じ時期!?...かな→事件は4年後)となる。
 能登畠山家は3120石、4代義記(従四位上侍従兼下総守)と7代義宣(正四位上左少将兼長門守)が高家肝煎になっている。

※📖「島津文書」
 畠山重忠の娘を妻(貞嶽夫人)にしていて、摂政関白を輩出している公家の最高峰・九条家の家司を代々務め、その一方頼朝の御家人のひとりでもある惟宗忠久(薩摩島津家家祖)は、畠山氏及び比企氏とも関係があり、公家の家司というところから頼朝の信任を得ていた人物で、平安時代末期から明治時代初期までの約700年間代々伝えた文書で東京大学資料編纂所所蔵で国宝指定の文書。
 近衛家は家祖の近衛基実(🖥️ココリコの田中直樹が演じている)の先祖の藤原頼通が平季基から薩摩国島津荘を寄進され、基実は島津荘の荘園領主。
 いかに島津家と近衛家が近しい間柄だったかは
江戸時代、徳川将軍家に二人の御台所を出していることが判る。
 ☝️11代徳川家斉正室は、薩摩第8代藩主島津重豪の娘で初名は於篤。「篤姫」と呼ばれた。そう最初の篤姫さん😅。 近衛経熈の養女・近衛寔子/通称は茂姫となって一橋豊千代(家斉)に嫁いだ。落飾後は広大院。 そしてご存知😉
 ☝️13代将軍家定の三人目の正室になったのが天璋院篤姫で藩内今和泉領主・島津忠剛の娘一子(かつこ)。公家出身の二人の妻の夭逝で、家定には武家からの入輿が検討され、家斉没後も広大院として権勢を奮った大叔母にあやかり、島津斉彬の養女・篤姫となり、更に右大臣近衛忠熈の養女となって家定に嫁ぎ、14代将軍家茂の未亡人・静寛院宮と共に徳川家存続のために尽力。

※花押(かおう)
 署名の代わりに使用した記号・符号。

 今回は畠山重忠の話しから天璋院篤姫まで繋がるという...だからおもしろいんだよね歴史ってさ☝️😉