【梶原景時】保延六年~正治二年(1140-1200)

桓武平氏平良文流鎌倉氏族。板東八平氏の一つ鎌倉景正(景政)三世の孫で大庭氏と同族(📖尊卑分脈)。
石橋山の戦いで頼朝を救ったことから重用され、幕府侍所所司(次官)で厩別当。🖥️では武骨者で描かれているが、実際は『武家百人一首』に選出されるなど風流の道でもその名が知られていたという。正治元年(1199)正月、頼朝の死に伴い景時は引き続き宿老として二代将軍頼家に重用されたが同年、若い頼家の失政により13人の会議制が敷かれると景時もこれに列した。その後幕府内部で起こった政争で景時が御家人66名による連判状によって職を追われるも、何の抗弁もせず一族を引き連れ所領の相模国一宮(神奈川県寒川町)に退隠。一時鎌倉に戻ったが、翌正治二年、鎌倉追放の命により、一族朗党引き連れて上洛のさなか駿河国清見関で吉川友兼ら在地の武士団に襲撃され合戦となり同国狐崎において三郎景茂、六郎景国、七郎景宗、八郎景則、九郎景連が討ち死、景時と嫡子景季(📖『平家物語』による宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで有名)、次郎景高は西奈の山上に逃れ自刃、翌日一族33名の首が路上に晒されたという。この終焉の地はのちに整備され梶原山公園(静岡県清水市葵区長尾)と呼ばれ墓石群が存在。その中の宝篋印塔が伝景時・景季・景高の墓。その他各地に伝承の墓所が存在する。
その中の一つ、吾輩が白金台の高級出前🚗持ち時代に何度か雪が谷店の「助」で法事弁当を届けたことがある大田区馬込の萬福寺☝️😌

📖「江戸名所図会」によると☝️
...武蔵国馬込村にあり、本尊は自然銅阿弥陀、観音、勢至、一光三尊なり。相伝う当寺は梶原平三景時創立の梵寺なり...とある。
「鎌倉初期の建久年間(1190頃)に、景時が頼朝の命により大檀那となり梶原家相伝の阿弥陀如来三尊仏を本尊として大井丸山に建立。元応二年(1320)火災にあって、景時の墓のある馬込の地に移され再建(さいこん)。
室町時代末期に寺域が荒廃し、天正三年(1575)鎌倉の禅僧明堂文龍大和尚によって従来の密教寺院を曹洞宗に改め再興。江戸時代初期の慶長十一年(1606)梶原の後胤と伝えられる安部家久が、梶原一白斎、助五郎の死去にあたり、荒廃した景時のの墓と共に一白斎の墓を建立、創建以来八百余年、その間栄枯盛衰を繰返し法灯連綿、正法脈脈と今日に至る。」
(萬福寺HPより)




伝・梶原平三景時墓(供養墓)
しかし、江戸時代に編纂された地誌『新説武蔵風土記稿』には詳細が記載され、景時の墓とされる墓所は俗説と否定されている。
後北条氏(伊勢新九郎長氏の北条早雲)の家臣団の中で太田道灌(資長)直系の子孫・太田康資を筆頭とする江戸衆の中に「馬込・梶原助五郎」「新井宿・梶原日向守」の名が見え、萬福寺の伝承梶原景時の墓は、この二人のどちらかではないかという説がある。
因みに鎌倉市深沢小学校敷地内にも景時・景季・景高の伝承 五輪塔(供養塔)が存在する。

江戸時代の「仙台藩編纂地誌」によると、景時一族の没落を見て、また和田氏・畠山氏が滅んで行くのを見て世を憂い、鎌倉を離れた景時の兄・景実が藤原高衡ゆかりの石浜(気仙沼市唐桑町)に辿り着き、一族の冥福を祈り源頼朝・梶原景時・梶原景季を祭神とした梶原神社⛩️を建立したとされている。
また南馬込5にある大田区郷土博物館には、
『磨墨塚』と呼ばれる梶原景季の愛馬🐴「磨墨(するすみ)」の墓と伝承されている塚がある。