本日2022年4月3日は旧暦三月三日でござんす。

🌸桜の季節だっつうに☂️が降っていてお寒うござんす。現在8℃だっていうし🥶雪でも降りそうな感。でも雪が降ってもおかしくはないのでござんす😓


 旧暦の三月三日といえば、江戸時代にあの歴史的大事件が起こった日。

 安政七年三月三日(1860年は3/24だった)、この日は江戸幕府が制定した『五節句』の日で「上巳の節句」、総登城の日にあたる。登城は午前十時までに城内に入るのが決まりで、まだ前日から雪が降り続いていた。

 登城行列の隊列の侍たちは、雨合羽に柄袋着用といういでたち....これが命とりになるとは。

井伊家上屋敷は桜田門から直ぐ近く、現在の憲政記念館がある場所。水戸の脱藩浪士たちに襲われたのは、現在の警視庁👮の真ん前。


(ボールペンで吾輩の注釈の走り書きは文中にある「織田矢部少輔邸」?矢部って何!ってツッコミを入れたヤツ😅→正式には「織田兵部少輔(信学/出羽天童藩主)」)
 首級を上げた薩摩藩の有村次左衛門は、背後から斬られ、直弼の首を抱えながら辰ノ口にある幕府若年寄の遠藤但馬守屋敷(→胤統→近江三上藩主)の門前にたどり着くも門番が開けず腹を切るも死にきれず、遠藤の家来によって藩邸に担ぎ込まれたが絶命。直弼の首は但馬守によって彦根藩に戻されたという。
 ⭐因みに図中、自訴したり門前で自刃した各大名家の当時の藩主の織田家・遠藤家以外は☝️
 脇坂淡路守邸(→安宅→播磨竜野藩主)
 細川越中守邸(→斉護→肥後熊本藩主)
 酒井雅楽頭邸(→忠顕→播磨姫路藩主)

 現場の指揮者・関鉄之介(元水戸藩郡奉行与力)は幕府の探索を逃れていたが、文久元年(1861)十月、越後湯沢で捕らえられ翌二年五月斬首された。 
 桜田門外で襲撃した18名のうち、自刃・傷死・斬罪を逃れたのは2名だが、彼らは明治まで生き延びた。厄介(家督を継ぐ者以外の成人した子供達の事)の増子金八(明治14年没)と神官の海後磋磯之介(明治36年没)である。
 襲撃した側は巷間知られているが、実は諸事情(雨具着用等)もあるが、主人を討ち取られてしまった彦根藩士の方が、もっと悲惨だった事をご存知だろうか....。
 戦って討死した河西忠左衛門、沢田半六、永田太郎兵衛、負傷して帰邸後に死亡した岩崎徳之進、小河原秀之丞、加田九郎太、日下部三郎右衛門、越石源次郎の八名は、井伊家の江戸菩提寺である豪徳寺の井伊家墓所内の井伊直弼の墓の後方に「桜田殉難八士之碑」として祀られているが、
重傷者8名は彦根領の下野佐野(栃木県)に配流。
軽傷者5名は入牢後切腹。
無傷の5名は入牢後斬首。

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2010年 佐藤純彌監督作品
原作:吉村昭【桜田門外ノ変】
 関鉄之介 大沢たかお
 関 ふさ 長谷川京子
 金子孫二郎 柄本明
 高橋多一郎 生瀬勝久
 稲田重蔵 田中要次
 有村次左衛門 板東巳之助
 井伊直弼 伊武雅刀
 徳川斉昭 北大路欣也

そしてもう一本☝️浅田次郎原作
2014年 岩松節朗監督作品【柘榴坂の仇討】
 こちらは、彦根藩の下級武士・志村金吾が剣の腕を買われ直弼の近習に取り立てられるが、襲撃側の一人佐橋十兵衛を追いかけ行列を離れてしまい、その間に直弼を討たれ、藩から斬首を言い渡されるが、自裁した両親に免じて死罪を許され、逃げた水戸脱藩浪士たちを討ち殿の墓前に首を供えよと命ぜられる。騒動から13年の時が流れた明治6年、既に幕府は瓦解し彦根藩も存在しなかったが、ひたすら仇を探し続けていた....。

 志村金吾 中井貴一
 佐橋十兵衛(維新後は車夫直吉) 阿部寛
 志村セツ 広末涼子
 井伊直弼 中村吉右衛門



文中敬称略



参考出典:
「東京時代MAP. 大江戸編 新創社編」光村推古書院刊