再稿でござんす。つい先日最終回を迎えたCXの"なんちゃって令和版大奥"☝️時系列・人物設定・時代背景・フィクション+ノンフィクションのドラマの作り方等何から何までハチャメチャで開いた口が未だに閉まりきってない😓😩😱😮☹️🙁という💩脚本...ムロ(ツヨシ)さんとてちこ(平手友梨奈)のドラマがあんなにおもしろかったのに....ってなワケで口直しに、ドラマとほぼほぼ同年代に実際にいた人物、ドラマで田安・一橋の名前が出て来たけど、御三卿のもう一つ清水徳川家の御広敷用人(奥向きの役人)だった幕臣・村尾正靖さんの趣味😊😇☺️お江戸とお江戸の近郊日帰りプチ旅行の顛末。これがまぁおもしろいんですよ。なぜ日帰りか?というのは幕臣は基本外泊が禁止だったワケで、江戸から離れた封地(自分の領地)に行くのも届け出をしなくちゃいけない。ってなワケで朝早く屋敷を出て江戸八百八町の町々の木戸が閉まる前に帰って来なくちゃいけないという事情が有りぃ~ののプチ旅行。プチとは言っても現在の千代田区麹町にあった屋敷から遠くは北の千葉県市川市や南は世田谷区玉川、はたまた府中や高幡不動や...いろんな所を歩き回っている四十代から始まって七十のじさまの時代まで(江戸時代の高齢幕臣は隠居せず現役がけっこう多かった)🚶➰歩き回った話(紀行文)を現代の地図と合わせながら読むのもまた一考なワケで😀

一昨年に上げたブログ内容を再稿👇


 筆まめな村尾嘉陵さんのお江戸近郊プチ旅行記の顛末を当時の切絵図と現代の地図を並べて見比べながら読むのもまた楽しいものなんでござんす😄

 今回は文政六年(1823)の弥生三月、谷中に遊んだ記。当時の年代記(クロニクルでござんすネ😉)としては、前年の1822-文政五年に、当時の疫病としては最強の感染症、罹患して数日で死に至るところから「三日コロリ」と呼ばれたコレラが大流行した年だったそうだ😱因みにこのコロリ...狐狼狸って書くらしい。対応策としては令和の時代の新型コロナウイルス同様、手洗い、うがい、換気だったらしい。そんな世相の翌年の日記✍️


ほぼほぼ同じ位置具合、👆切絵図にある←矢印は
👇現代の地図にある『ヒマラヤ杉』の場所。

 上の切絵図を反転させて拡大してみた。これを踏まえて嘉陵さんの日記を読んでみよう。下の切絵図にも現代地図にも載っている『天眼寺』『玉林寺』『瑞輪寺』などが出てくる☝️😏

【谷中に遊ぶ記】
 癸未(みずのとひつじ/文政六年)三月十二日、谷中天眼寺<台東区谷中1>、春台太宰純(荻生徂徠門下の儒学者、延享四年<1746>没/歳68)の墓をとぶらふ(弔う)、墓は堂のうしろに在、石面に春台太宰先生之墓と八分(はつぶん)もて書す、碑陰の文は服元喬(春台と同門で詩文に優れた服部南郭、宝暦九年<1759>没/66歳)撰、ともに烏石葛辰(松下烏石、南郭・細井広沢に学び、書で有名。安永元年<1772>没/80歳)の書也、又傍(またかたわ)らに一小石を建、こは寛政八年太宰子五十年の忌辰、書肆(しょし←📚本屋さん)嵩山房(須原屋新兵衛、小林氏、日本橋通二丁目、徂徠・春台・南郭の著書は多くこの店が版行した)が建る所也、云く、三世の祖某太宰子と好し、あらはす所の書、木に上す事あれば、必かれにはかる故を以、家やゝおこる、今薄奠を設けてこれを祭り、其恩に報ひ、永く子孫に至而(いたって)これを忘れざらしむと也、かれは日本橋上の一賈人(こじん)なるも、恩に浴して忘れず、言葉を石に託して子孫にのこす、其志の厚き、いといとあはれにめでたし
 そこを出て玉林寺(台東区谷中1)に中村蘭林(幕府儒者、室鳩巣門下、足利学校に著書を献納したが、一部国立国会図書館に移る。宝暦十一年<1761>没/65歳)の墓を訪、名は明遠、深蔵と称す、蘭林は其号也、ここは春台の墓にくらぶれば、四分が一の大さ也、石のおもてに蘭林藤原明遠之墓と正楷もて書す、墓石は唯その姓名生卒を記して足りとす、言行をしるすが如きは浮華のことたりと、其あらはす所『学山録』及『講習余筆』に載(のす)となん、碑陰の文などなきは、盖(けだし)其遺意にしたがへるのるべし、学鳩巣室子の門に出といへども、宋学を奉ずる事其師の如く、宋説においては毫も疑を容(いれ)ざるが如くにはあらずと、ある文に見ゆ、医員より起て儒臣と成は、この人一人のみといへり、今其後ありやいなや、寺僧に問にしらず、墓に参る訪人ありともみえず、おのれ寺僧にたのみて花を手向て去

つたえこし道明らけく遠ながき世にもあふがん朽ぬ其名を

 太上は徳を立、その次は功を立とか、子嗣相承(あいうけ)て世々にたへずとも、区々として鳥獣と同く生、草木とひとしく朽なんにくらべなば、春台、蘭林の如きは後なきをうれふべけんや 
 この山を望湖山と呼、こはそのかみ猷廟(徳川家光)こゝに成せ給ふ時、後山に池水をみるのみにあらず、遠望又限りなかりしといへり、二祖風室といひ(言い)しは、天海僧正と時を同じふし、山又となれるをもて其交りふかく、ともに猷廟の御むねにかなひて、しばしばこの寺にも成せ給ふと寺僧いへり、はた過し文政三年清水の土居(清水徳川家)の石垣くづれたるとき、ほり出したる古石碑(いしぶみ)を、この寺に納むと聞しかば、請てみるに、青石の碑六七箇を一小龕(がん)に安じて、これを選仏場のかたはらに置り、この碑のうち暦応四年とあるぞ、いちふるきにぞありける
 寺を出て、少し東のかたへ立もどりて、小径を四丁ばかり行ば、おくに寺あり、領玄寺(台東区谷中4)といふ、こゝに会式桜(ゑしきざくら)といふがありと、或人のいひしかば、それを尋みるに、はや葉のみして花はふたふさ三ふさばかり、こゝかしこの葉がくれにのこるのみ、ひとへの山ざくら也や、さだかにはしられず、堂のかたはら経蔵の北に石碑あり、身延山三十三世日亨上人の墓、享保六年(1721)十二月廿六日と彫付、桜其墓前にあり、させる古木にはあらねど梢生ひろごりて、あたりをさふるばかり也、札を建て亨師桜十月会式に花さくよしを記す、これを亨師桜とよび名づくるは、日亨上人が植えしなればしかいふ歟(か)、去歳の十月会式にこゝに来てこの花を見しに、其日はみぞれふりて、ことに寒きに、花あまた咲たれど、さすがに寒きにたへずして、しぼめるやうにありしといへり、さらば冬と春と二度花さくか、疑らくは会式の比(ころ)さくは、かへり花のたぐひにて、春さくには必劣れるなるべし
 寺門を出て、其東に少しよこをれ(横折れ)行ば瑞輪寺(台東区谷中4)といふがあり、門より見入れは、本堂までおよそ二丁ばかり、左右みな大樹のさくらあり、見あぐれば道を隔てゝ梢の枝生(はえ)すがひて、空を見ぬばかり、しかも、その梢の高き事五六丈ばかりもありなんかし、仰ぎのぞめば首のほねかゆたるきを覚ゆ、なべて皆淡紅の単(ひとへ)なり、本堂のかたはら祖師堂の前にも一もとあり、わきていつくし、凡寺中にある所のさくら三十本ばかり、各の木のさま一様にして、かこみは二囲にはたらぬも、一囲半にはあまれるも、たらぬはなし、はたおよそのさくらは、梢の枝もたはゝにくだりたるゝを、こゝのは木だち銀杏樹(いてふ=いちょう)のさまして、なべて枝空ざまに生(はえ)たちのびて、よの常に異也、思ふにうへ野(上野)の花、あすか山(北区王子本町1)などは、都会の花にくらぶれば長からなんかし

◼️天眼寺 臨済宗
 東京メトロ千代田線根津駅前の不忍通りと交差している言問通りの坂、善光寺坂を少し上がって右にある。延宝六年(1678)創建、松平下総守忠弘の開基、本堂の裏の墓域に入って中央が武蔵忍十万石松平家(奥平系)の墓所である。忠弘の正室(肥後熊本藩細川忠利の娘)の法名・天眼寺殿が寺名。墓碑は、湯島麟祥院の春日局同様の大きな丸い穴が開いた無縫塔である。もちろん太宰春台の墓も現存している。

◼️瑞輪寺 日蓮宗
 千代田線千駄木駅の駅前、谷中に向かう三崎(さんさき)坂を上って右折し、永久寺の裏手に広大な墓地を持つ瑞輪寺がある。徳川家康が江戸馬喰町に建立、慶安三年(1650)の火災により現在地に移転。山門に三葉葵の天幕が架かっている。谷中の寺町の中でも最も大きな寺と云っても差し支えがない☝️境内に入って左一帯と本堂の裏は墓地で、大名家との関わりも深いので多くの大名家の墓所が現存している。陸奥会津松平家、筑前福岡黒田家、讃岐高松松平家、備後福山阿部家、土佐高知山内家、伊予松山松平家、伊勢桑名松平家、越前敦賀本多家、越後三条市橋家、豊後岡中川家、三河西大平大岡家(大岡忠相が藩祖)などの諸大名の大きな五輪塔や宝篋印塔が所狭しと並んでいる。
 又、墓域の中央には、江戸に上水道を設けた功労者の都指定旧跡の「大久保主水(忠行)の墓」、主水は通常「もんど」と読むが、水が濁らないようにと「もんと」になった。他に幕末・明治の日本画家の河鍋暁斎の墓もある。

☝️😉どうでげした? 200年強経った現在(いま)でも、こうやって当時の息吹を感じながら読むのも楽しいんでござんすよ😃💕 特に吾輩の場合、趣味と実益の双方で、あっちこっち歩き回ったり、法事弁当持ってたりとよくよく道を把握してるので尚更照れおねがいニヤリ