もう10数年も前になるだろうか、吾輩の江戸時代史散策、題して『江戸ある記』の荒川区編で、区立図書館を併設する【荒川区ふるさと文化館】で『小塚原刑場』の展示(不定期)があり見てきた。それが上の刑場で約220年間、20万人ほどの獄門首を見下ろしていた「首切地蔵」の古写真が載ったパンフレット😱おどろおどろ過ぎて...チビりそう😩 そして現状の写真をネットの中から捜して来た。

 2011年の東日本大震災で、震災後にお伺いした時には、お地蔵さんの腕が落下し、他にもところどころ損傷していた。管理している延命寺さんに復元の為の喜捨をしてきた。あれから、もう9年にもなるわけで...現在のお姿をこの目でまた見たい。コロナ禍が終息の方向に向かえば行けるんだけどね。

 刑を執行する場所を刑場と呼んでおり、これは死罪以上の刑の者を処刑し、または処刑した後を晒した。ただし晒し場や敲き刑執行の小伝馬町牢屋敷門前は刑場とはいわない。
 牢屋敷の切り場(土壇場)、千住小塚原、品川鈴が森が刑場としては有名で、そのほか板橋にもあった。牢屋敷内では斬首のみを行い、小塚原と鈴が森は、磔・火焙り・獄門の場所である。獄門とは、斬首刑の中で尤も軽い刑を「下手人」...従って、よく📺🎬の時代劇等で犯人の事を下手人と言うのは間違い☝️。「下手人」は情状酌量された者。刑の執行手続きは「死罪」と同じだが、死罪は夜間の斬首、下手人は昼間の斬首で、その死骸は様斬りにされないで引取人に下げ渡されるから埋葬することができた。死罪は同じ斬首の刑だが、下手人よりは重く、獄門より軽いものを死罪といった。そしてその「獄門」は、死罪よりも重く、斬首されてから、その首を三日間刑場に晒すという恥辱刑が付加され、その後で取り捨て、或いは埋棄(申し訳程度にパラパラと土をかけるくらいガーン)された。
 なぜ小塚原と鈴が森が刑場にえらばれたかというと、江戸に入る東西の入口で、宿場があり、往還が激しかったから、幕府による警告・威嚇主義から人目につく場所を選んだのだ。

【小塚原刑場】
 小塚原は千住村の荒廃した野原で千住宿のかたわらにあり、浅草の地域に属していたので「浅草の仕置き場」といった。浅草・小塚原・千住小塚原などを総称し略して「コツ」といった。小塚原のコツと骨のコツと相通じるので「骨が原」ともいったが、本来は牛頭天王社⛩️があったので「牛頭が原」といったのが正しい?...。刑場の側には宿場があり、遊廓があって賑わい、この遊廓をもコツと略称していた。元来は処刑後の死骸を本所回向院に埋棄していたが、明暦三年(1657)正月の江戸の大火事(明暦の大火=振袖火事)の焼死者10万8千余人を回向院に埋めてから引き取り手のない死人の埋葬地となり、やがて牢死、形死人と埋棄するようになったが、そのうち人家が立ち込んで埋葬する余地がなくなり、そこで小塚原にも一寺を建立して寛文七年(1667)に千住回向院とし、また慈善有志の人々が被刑者追善供養のため地蔵尊や、南無妙法蓮華経の石塔を建て、処刑場としての体裁がととのった。
 ここに埋棄された者は一年に千人に達したといわれるので、この刑場が廃止された明治14年までは、寺の説明によると20万人がここに埋棄されたという。
 処刑場で執行された残酷な刑がどのような警告になったかはとにかくとして、いかにその頃の人たちの好奇心をさそったかは、近くに料理屋や遊廓ができて人々が多く集まったことでも知られる。刑場を含めて、千住回向院の地域は千坪あまり、明治20年(1887)時の政府は表通り三百坪を払下げ、七百坪の境内となった。昭和になって人家がいよいよ建て込んで、地蔵尊とお題目の石碑のあたりのわずかな地域となってしまった。
 地蔵尊は青銅製で4㍍ほどで台座蓮華の表面横は約3㍍の大きさである。なおJR常磐線の線路工事が回向院の真ん中を通ることになり、現在は南側が回向院、北側が延命寺として独立。「首切地蔵」は延命寺の管理となった。のちに日比谷線の創設工事でも地下からムロに入った首(骸骨💀)がいくつも出土して、その度にニュースになっていた。
 この刑場で埋棄された著名人は、南部藩士下斗米将真こと相馬大作、吉田松陰、頼三樹三郎、橋本左内、安政の大獄の形死者、桜田門外の変関係の刑死者、鼠小僧次郎吉、島抜け毒婦花鳥、明治の原田きぬこと夜嵐お絹などである。後年、それぞれの墓碑・供養碑が建立されている。



出典:📖『図説:江戸町奉行所事典』笹間良彦著/柏書房刊☆夢輔さんのン十年間に亘る多大な江戸時代史資料等グラサン