【芝連】
◆大木戸黒牛(おおきどのくろうし)🐂
 芸名鶴賀若狭掾。剃髪して鶴翁と号す。通称高井庄兵衛。天明六(1786)年三月廿三日歿、年七十。

◆赤坂成笑(あかさかのなりわら)
 栗成笑。通称八木岡政七。赤坂に住す。

◆つくばねの峰依(つくばねのみねより)
 花沢氏。

◆浜辺黒人(はまべのくろひと)
 本芝三丁目の書肆三河屋半兵衛。本名斯波孟雅。字は子頌。寛政二(1790)年五月十八日歿、年七十一。

◆女奈里(おんななり)ニヤリ
 女流⁉️それにしてもなかなかシャレてます。

◆茶碗愚意呑(ちゃわんぐいのみ)
 🍶茶碗酒☺️

◆松風耳有(まつかぜみみあり)

◆酒上青のり(さかのうえのあおのり)

◆打藁の屑男(うちわらのくずお)
◆蕨早則(わらびのはやのり)
◆浜辺藻屑(はまべのもくず)

◆柳楊枝長房(やなぎようじながふさ)
 当時の楊枝を見れば「あぁ~なるほど👀ってなりますよ」☺️

◆大屁股臭(おおへのまたぐさ)びっくり
 😵そりゃ臭いですよね。

◆富士鷹なす(ふじのたかなす)
 お正月初夢の縁起もの「一富士二鷹三茄子」のパロディですわな爆笑

◆芝のうんこガーン💩

◆春日の朝沖(かすがのあさおき)
 オードリー?江戸時代から居たのか😏

【本丁連】
◆大屋裏住(おおやのうらずみ)
 のち萩廼屋翁と号す。姓は久須見氏。通称白子屋孫右衛門。日本橋金吹町の家主(大家)。江東区三好二丁目一言院葬。 
 最近....というか、もう五、六年前になろうか☝️一言院墓地は隣接の浄土宗雲光院(徳川家康の側室で東福門院和子の母代となり従一位に叙された阿茶局<雲光院殿従一位尼公>の菩提寺で局の大きな宝篋印塔が現存している)の境内墓地の中にあったんですよ。十数年前に、初めて裏住さんの掃苔にお伺いした時に、ご住職にお願いして、小さなお寺というより普通のシモタヤ風の庵なんですけどね、そのお寺の裏木戸から墓地に入って見せて戴いたわけですけど、とても📸いいですか?なんて話しかける状況ではなく、単に見せて戴いただけだったわけで、....それでその直近五、六年前に何度目かの雲光院の掃苔で墓地がやけに広く感じたわけで😓頭の中で🗺️地図を描いてみれば、💡一言院と雲光院って背中合わせじゃねえのって😫。というわけで記憶を頼りに裏住さんのお墓を探してみたけど結局わからなかったですね😩

◆腹からの秋人(はらからのあきんど)
 根っからの商人<あきんど>って意味でしょうね😊通称中井嘉右衛門、名は敬義。字は伯直。董堂と号す。日本橋本町の書家。文政(1821)四年七月廿六日歿、年六十四。

◆江戸前牟奈伎(えどまえむなぎ)
 江戸前の鰻の意。そうです💡元来、江戸前とは今のお鮨🍣ではなくうなぎの事だったんですよ☝️生活用水が流れ込む江戸湾の前海で、お米のとぎ汁やゴハンつぶなどを食して丸まると太って脂が乗ったうなぎ。お江戸でも上方から職人を招いて関東独特のあの、こいくち醤油を生み出してからは江戸の食もコロッと変わり、あの甘辛いうなぎのタレが発明されたんですよ。うなぎ自体はそれこそ平安時代から食べられていたそうですけど、お江戸に醤油ができるまでは、筒切りにして塩焼きだったらしいんですよ。その形が蒲の穂に似ているから「蒲焼き」になったわけで☝️ご存知でした? 蒲焼きが鰻丼や鰻重に変化したのは芝居町の大久保今助さんが冷めた鰻じゃ美味しくねぇってんで暖かい炊きたてのメシの上に載せて持って来てくれ!って出前を頼んだことが始まりとされている。往年の阪神タイガースのレジェンドによるカレーライスと豚カツを一皿にして一緒に持ってきてくれという「カツカレー」も、同じ発想☝️😊

◆坂月米人(さかつきのこめと)
 吾友軒。狂歌房と号す。通称榎本治兵衛。始め日本橋金吹町に住み、のち霊岸島に移り、四方(よも)瀧水と改む。

◆記のつかぬ(きのつかぬ)爆笑
 通称伊勢屋清左衛門。小石川伝通院前に住す。「気付けよっ!」って話でしょ😁

◆手柄岡持(てがらのおかもち)
 戯作者名は朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)。通称平澤平格のち平荷。出羽秋田藩佐竹家の江戸用人。下谷三味線堀の秋田藩邸に住す。江戸ッ子が地方の田舎侍を蔑んで言う言葉「浅黄裏(あさぎうら)」から自らを東北の田舎侍と喩え浅黄裏成(あさぎのうらなり)の戯名もある。が、岡持は江戸生まれの生粋の江戸ッ子である爆笑。江東区平野にあるこの地の寺院の墓地が集まっている(日蓮宗浄心寺塔頭群)一画にある一乗院墓地に墓碑が現存。江戸文学の有名人のお一人です。


以下次号。
【本丁連】の続きをば...