死んで魂だけになった時に感じる衝撃の事実があります。それは「暇で仕方なくなる」と言うことです。なぜかと言うと、行きたいところに瞬時に行けるし、欲しいものがあったら、それがパッと現れてしまうからです。 

肉体を持って生きていればこそ、様々な経験を通して得た感動って言うものが最大の喜びなんです。
特に何かを乗り超えた時なんて、人間の温かさとか、思いやりとか、自然の恵みに対して大きな感謝を感じることがあります。

何でも、自分の思いでおりに事が進んだら、「何も面白くないし」何より、「暇で仕方なく」なるのです。
この事実を、生きている人間にしたら「当たり前」と勘違いして、感謝する事さえありません。
ですが、現実はそんなものでは無いのです。
だからこそ、(この肉体があると言う)限られた貴重な時間があるうちに 肉体を大切に使いながら、、「これでもか~!という位たくさんの経験をして、精神的に満足させておかなければ、いざ死ぬ段になり「もっと経験しておけば良かった」と、大きな後悔することになります。

この後悔は、人間にとってとても大きなものなので、是非実行して欲しいと思います・・・。

そこで木内さんは 言います。実は魂の視点から見るとこの地球といういろんな経験ができる貴重な環境を 維持し続けるために人間が知恵を出し合うことこそが最大の役目なんです。
動物も植物も鉱物 も人間も同じ地球という船をお借りしており、いつでも取り出せる膨大な意識の存在がいると感じたそうです。この膨大な意識に自分が包まれると、なんと太陽系、地球、人間動植物、全ての生物生命体の誕生からその終わりまで、全ての膨大な情報が自分のものになるそうです。

その時は、まるで急に頭が良くなって、天才になったような感覚になるそうです。 ですが、一度生き返ってしまうと、この膨大な意識も取り出せ無くなるそうです。
膨大な意識が存在していて 宇宙の情報は何でも分かって何の悩みもない状態。どうでしょう。これは、退屈で仕方なくなりませんか。だからこそ個人というものに分けて、いろんな経験をして、その経験をごく僅か「この世に」持ち帰るという風にできているのかも知れません。
つまり生きるとは、経験を積むこと。ちなみに膨大な意識をもう少しイメージしやすいように例えると、スーパー コンピューターと言えるかも知れません。

このスーパーコンピューターは、自分の中に3次元という 1つの世界を作り出します。その世界の中には銀河があって、太陽系があって、地球があって、その地球の中では様々な生命活動が行われていきます。どんな小さなものも全ての元はスーパーコンピューいう状態なので、その一部は全体にアクセスすることもできます。つまり私たちは スーパーコンピューターが生み出したバーチャルなキャラクターを個人として、「自分だと認識している」ということになるんです。

自分の背後には、また宇宙全体のシステムを支配しているスーパーコンピューターが膨大な意識だとすると、人間の脳がコンピューター。目は小型カメラ。生きている時の人間の意識はコンピューターである脳の映像を映し出すモニターテレビといった感じです。
つまり「自分というコンピューターの電源がオフになる」つまり死ぬと、意識は脳からの映像では なくて、スーパーコンピューターから送られてくる情報を映し出すようになるんです。

肉体が死んだら意識だけになります。すると 生きている時に自分が経験した情報は全て膨大な意識に吸収されるというわけです。 そして、自分自身も膨大な意識に吸収されて膨大な意識の一部になるというのです。

今回の話しは、何か突拍子も話しのように受け止めている人がいるかも知れません。でも私は、2023年2月に同じ内容の記事を書いていたのです。
ブログの表題は「大河(宇宙・存在)の一滴」です。その記事の一端を紹介し終わりにします。
  
以下、ブログ記事「大河(宇宙・存在)の一滴」から引用
「存在とは何か?」について少し考えてみました。・・・考えるヒントとして、過去に行っていた瞑想の行と、経典から一つ、『物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』(『スッタニパータ』七五三偈)という言葉を参考にしました。

私は61歳から、本格的に瞑想と称する修行を始めましたが全くの自己流です。難しいことは一切おこなわず、ただ坐り呼吸に意識を集中し「深い意識の世界」を目指しました。2年ほど経過したとき、突然地球の成層圏を突き抜けるような感覚を得て、とても静かな世界に到達しました。(深い世界(下向き)を目指したのに、地球を突き抜ける(上向き)とは誠に不思議なことなのですが・・・)

そこは、呼吸の必要もないほど静かで広大な何も無い世界です。そこに感じられるのは、「とても柔らかな慈悲(やさしい)のながれ」があるだけです。それは、「独り子を静かに優しく包みこんで守り育てるようとする母親のこころ」に似たほんのり温かな感覚で、その慈愛に満ちた静かな流れは、とても心地よく感じられました。
その感覚に触れて私は直感したのです。存在とは「慈悲(やさしい)そのものである」と。
 
それを仮に「慈悲(やさしい)なるこころ(意思)」と呼ぶならば、その慈悲なるこころがなければ、私達はこの世に一時(ひととき)も存在することが出来ないことに気がつきます。私達が、この世に生きて活動するための基本的条件は、そのこころ(意思)によって全て準備されていると言っても過言ではないからです。

・・・以下、略

今回の記事は、「存在・・・そして慈悲(やさしい)」の記事に繋げて、(私たちの)「存在とは何か」を少し考えてみたいと思い書きました。
そして表題を、「大河(宇宙・存在)の一滴」としたのです。そのイメージの元となったのは、作家・五木寛之(いつきひろゆき)氏が過去に書いた著書『大河の一滴』という書物の題名です。

その物語のストーリーは忘れてしまいましたが、その題名だけはしっかり覚えていました。(そのイメージから)私たちの存在とは、一滴の水(滴)の如くであり、彼(か)の世界を大河の流れに喩えているのです。その流れに入ったなら、どこの誰それという名称も言葉も何もかもが無くなり、ただ「大河」(大きな河)と呼ばれるだけのものになるのです。

大きな河の流れには、「静けさと安らぎ」だけが存在します。その広い世界の中にいると、喩えようもない幸福感に満たされ、決して「その空間から」抜け出たいなどとは考えません。
(その世界のことを、最先端量子科学では「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ぶようです。)

最も、その世界に理屈は必要ありません。理屈など、何も無くても「わかりきっているし」秩序正しく存在しているのです。そこはある意味、無限の宇宙空間です。形あるものは何も存在しません。その世界に赴く者も、この世界で生きる者も全て繋がっていますが、「どの様な構造になっているか」明確な答えを、この世界(形ある世界)に生きる私たちは持ち合わせていません。
何の答えが無くても、この宇宙は存在し秩序が乱れることなどありません。「私」とか「私のもの」とか「私のわたし」という意識も、どこにもありません。
(人間として)生を受け、形ある世界で苦労するのはなぜでしょう。・・・限りある生命と、(その世界にある)欲望と迷いと怒りと苦しみとを味わい、ちょっぴり苦い香辛料(スパイス)の如く現世(形ある世界)を味わうことにより、(人間界における)目覚めに一役買っているからかも知れません。」
 以下、ブログ記事「大河(宇宙・存在)の一滴」から引用終わり
(続く)