「では、なぜ、我々の意識がゼロ・ポイント・フィールドに移ると、「自我」(エゴ)が消えていくのか。
「恐怖」や「不安」が無くなるからである。
元々、我々の心の中の「自我」(エゴ)は、この現実世界での我々の生物としての「生存本能」に根源を持っている。「死」に対する恐怖、「生存」が脅かされることへの不安、そうした恐怖や不安から、「自我」が生まれ、この「生存本能」に根ざした「自我」が、さらに意識の中で広がっていき、「闘争心」や「競争心」、「自他の分離」や「自他の比較」、「承認欲求」や「自尊心」などの意識を生み出すのである。

そして、それが「敗北」や「挫折」、「孤独」や「劣等感」、「渇望感」や「自己否定」などを通じて、我々の心に「苦しみ」を生み出しているのである。
それゆえ、我々の心の中から「自我」が無くなれば、「心の苦しみ」も無くなるのである。この「生存本能」に根ざした「自我」は、現実世界では、決して無くならない
しかし、ひとたび肉体の死を迎えた後は、我々の意識の中の「自我」は、もはや「死の恐怖」や「生存の不安」から解放され、その存在意義を失い、自然に消えていく。

あれほど、現実世界で我々を苦しみ続けた「自我」がそして、消そうと思っても決して消えることの無かった「自我」が、ゼロ・ポイント・フィールドにおいては、自然に消えていくのである。
そして、その結果、「心の苦しみ」も、自然に消えていく。

もとより、死後、我々の意識は,肉体を離れるため、「肉体的苦痛」からも解放されるが、さらに、こうしたプロセスを経て、「精神的苦痛」からも解放されていくのである。
では、「自我」(エゴ)が消えていくとは、何を意味するのか。
それは、「私」が消えていくことを意味している。

なぜなら、「自我」(エゴ)は、その本性として、自分と他者を分け、自分と世界を分け、そこに「私」という意識を生み出していくからである。
それゆえ、「自我」(エゴ)が消えていくということは、「私」が消えていくことを意味しているのである。(以上、『死は存在しない』228頁~229頁引用)
232
ここで消えていく「私」とは、生まれながらに○○○○と固有名詞を付された「個別意識」としての私(自分自身)であり、その小さな「自我意識」(エゴ)が消えていっても、決して消えない「私」(真の私)がいるのです。
そして、この「真の私」というものが、「自我」に拘束された「現実世界の私」や「個別意識としての私」ではないことに気づいた時、「死」というものが、本来存在しないということの意味を、本当に理解出来ると言うのです。

ただし、それでも死後私たちの意識は、しばし「苦しみに満ちた世界」を味わうことはあると著者は言います。
例えば、無残に殺された人、恨みをもって死んだ人、強い悔いを遺して死んだ人などですが、意識はゼロ・ポイント・フィールドに移って、「自我」が消えるまでの一定の期間、「苦しみに満ちた世界」を生み出してしまうと言うのです。
(つづく)