はっきり、誰もが明確に認識出来る現象として「死」があるならば、それに対して反対する意見など出ようもありませんが、そもそも「死」という現象それ自体理解不能なる出来事であり、更に悪いことに人々はそれを「忌み嫌い」時に強い恐怖すら憶えるものですから、積極的に理解・認識する機会(あるいは意思を持つこと)は極めて少ないと言わざるを得ません。

その様なテーマを、懸命に真剣に研究する人間は稀であり、時に「変わり者」というレッテルさえ貼られてしまいます。
その様に、どうにでも取れる現象である「死」を古来仏教(あるいは他宗教)では「死後の世界」に結びつけ、極楽とか浄土だとか天国あるいは地獄とかと様々に表現し、時に大衆に来世への大いなる希望を抱かせ、時に来世への恐怖を抱かせることにより種々様々(な宗教が、自らの教義に合うよう)利用してきたという歴史的経緯があります。

「死」が、来世に対する期待あるいは希望の場合は、それ程大きな問題はありませんが、現在とかく話題になっている某宗教団体などのように、来世に「地獄に墜ちる」というマインド・コントロール(洗脳)を施し、信者を自分たちの都合の良いように動かすことに利用する手段として活用する姿勢は、(宗教者として)極めて悪質な行為であると言えます。

現実問題として、「死」について深く考えることも語り合うことも少ない訳ですから、本人の認識不足を逆手に取り、悪意を持つ者達はそれを利用しようと画策する訳です。
そういう意味でも、『死は存在しない』の著書は参考になるので読む価値はあると言えます。

著書に入り、第一話(47ページ)には「「死後の世界は存在するか」三つの答え」という項目があります。そこで、「あなたは「死後の世界」の存在を信じるか、と問われたならば「何と答えるかという質問に対して、大きくは三つの立場に別れると書いています。
第一は、「死後の世界の科学的否定論」であり第二には、「死後の世界の宗教的肯定論」であり、第三には「死後の世界の半信半疑論」であるとしています。

そして、その中で現代人の多くは第三の立場に立って考え生活しているであろうと述べます。著者は、そのことを象徴する行為が「墓参り」や「神社・仏閣巡り」であるとします。
その様な行為をなす多くの人々は、その深層意識のどこかに「死後の世界があると信じたい」、あるいは「神仏の存在を信じたいという」思いを抱きつつも、現代科学はその存在を明確に否定しているが故に、表面意識ではそれらを否定しようと考えていると言うのです。

現代社会は、かように科学万能であるかのように言われますが、実際は分からないことだらけであり、(例えば)現在流行しているというコロナウィルスにしても、コロナワクチンにしても本当のところは「よく分かっていない」というのが正直なところです。
ですから、様々な意見が出るのはある意味当然の話なのですが、政治権力を握る者達は「ある一方に偏る意見」で世間を動かしているから、おかしなことが起こるのです。

21世紀にもなり、科学が進んだと言いながら実は人間の生体についてすら、よく分かっていないというのが正直な所だと思います。何より、人間の「意識」についてもきちんと納得出来る解明など出来ていないのです。
それを、四角四面の定規で測るように「決めつける」ことで、益々多くの弊害が生まれていると言っても過言ではありません。
(つづく)