私の知り得た情報を、少しだけ紹介致しましたが読者の皆様は如何思われたでしょうか。人生の最終章、最後の最後には自分自身の処置について(何らかの決断を迫られると)考えておいた方が良いでしょう。
普通に考えて、人間は「そう簡単には死ねない」生き物ですから、万一の時にはどうするかを想定しておく必要があるのです。

最初に話を戻して、今年5月16日に81歳で亡くなった中尾彬氏は(あらゆる)自分の将来を想定し、(自分自身の)未来図を描いて、少しずつ準備をしていたことが理解出来るのです。

「夫妻で、10年近く前から(積極的に)終活を勧めていた」という話や、大事な品物を少しずつ処分するという行動が、まさにそれであり手のかかる「不動産の売却や遺言状の作成、墓の建立など」、普通の人なら準備しないような細かいところまで、微に入り細に渡り心配(こころくば)りしていたことが理解出来ます。・・・まさに、彼は人生の達人ともいえる人であったと評価します。

師であるSRKWブッダブッダはよく、「覚りの修行は、最後の最後が最も難しい」と説かれますが、人生の最終章も同じことが言えます。
大体において、元気に生きている人間が普通「死を想定する」、と言うこと自体考えが及ばないからです。
むしろ人は皆、「どの様に楽しく生きていくか」ばかりを考えています。・・・すなわち、足下(現在)のみを見て自分の人生を考えているのが「衆生の生き方」なのです。

しかし、人間は「一寸先は分からない」世界に住んでいるのですから、油断は出来ません。いつ何時、何が起こるか分からないのが「この世界」です。
仏教思想で語る、「今、この瞬間を大切に生きなさい」とは、全ては「想定不能な未来」を指して説かれている教えなのです。

しっかり未来を想定し、自分なりに準備をして生きていなかったなら、悔いを残すことがあるでしょう。「現在(いま)」という、(元気に活動出来る日々が)未来永劫続くなどと考えてはいけないのです。特に「何も考えていなくても」時間だけは空しく過ぎ去っていくのですから・・・。

この世界における、自分自身の時間というものは、限られたものであり「やがて去らなければ」いけなくなります。
最後の局面で、決断がつかなくて「何時までも延命治療にすがる」と言うのでは、あまりかっこよい生き方ではないと個人的には考えます。

また、この人間社会は適度に新旧交代が行われなければ高齢者ばかりが増えて、社会そのものに活力が失われて行くことになります。
寿命だから何とも言えませんが、適当(丁度よい)な年齢になったなら、「この世界を去る」ということを想定して、物心両面の準備をする必要があると言うことです。
(終わり)