この様に、この世界で生きるということは「不確実な中を生きる」ということですから、その不確実な中から(自分の人生にとって)よりベターな道を見つけ出さなければいけないのです。
その為に、世の中には様々な宗教があり哲学があるとも言えます。・・・さしずめ、私自身の人生に例えると原始仏教経典が「人生の道しるべ」になっていたことは間違いありません。

話を和田秀樹氏に戻すと、「中尾氏は、死期をある程度覚悟しておられて、そのために(大事にされていた)ねじねじを何百本も処分された。(それは)「死期を悟っている人でないと、やらないような終活をなさっていたということなんですよ」と語ります。

また、「最近まで元気だった」のが、「死期をはっきり悟っている」状態になり、「自宅にいることに拘る」という一連の流れを考えた場合、末期ガンの宣告を受けていたのではと推測されると言うのです。
その実態について、今となれば本人に確かめようもありませんが、十分考えられることです。
その様な、(ある意味)極限状態に追い込まれた時人間の取る態度として、治療に専念し治癒を目指すのか、素直に病気を受け入れ(延命治療せず)自然に任せるという二つの選択が考えられます。

この二つの道で、どちらを選ぶかということは(人生の)大きなターニングポイントになるであろうことは私自身も納得出来ます。
人間である以上、「何が何でも生き続ける」というのも一つの考え方であり、その様な道を選択する人が(国民の)大半ではないかとも言えます。・・・巷では、ガンは「早期発見・早期治療で回復できる」とまで喧伝されている訳ですから。

もう一つの考え方は、事態を直視しながらも自然に任せるという、ある意味消極的な考え方です。年齢が若くて、まだまだ働かなければいけない家族の大黒柱なら、当然消極的な考え方は許されませんが、高齢者の場合ならガン治療のやり方や効果などを考慮し、後者の道を選択する人が少なからずいると想像出来ます。

シェイクスピアの名言に、「人生は選択の連続である」という言葉がありますが、まさに人間の一生とは、「選択の連続である」と断言することが出来るのです。
と言うことは、いつ何時「決断を迫られるか分からない」と覚悟して、事前に想定しておく必要があると私は考えます。

この様な、人生の岐路を決める決断を一朝一夕に決断出来ないという場面は、十分に考えられることだからです。想像するに、おそらく中尾氏は「余計な延命治療はしない」「できる限り自宅で過ごす」という決断を、早い時期からしていたものと思われます。

自分の人生の主導権を持つのは、自分自身であり全て自分自身が決めるべきであると私も考えます。仮に名医と呼ばれる存在が身近にいたとしても、自分以外の他人に自分の人生の重要な決断を任せてはいけないというのが(私自身の)考え方です。
(つづく)