昭和49年(1974年)6月29日は、私の長い自衛官生活の中で最大の惨事が起きた忘れもしない因縁の日です。
私は、自衛隊に入隊し迫撃砲の訓練を受け迫撃砲中隊に所属していたのですが、その事故は81ミリ迫撃砲が正常に発射されず、砲内で爆発したため一瞬にして6名の隊員が死亡するという大事故発生の日であり、それは十勝の帯広にほど近い然別演習場という場所で起きました。

迫撃砲という火器は、砲内に弾丸を装填することにより発射装薬に点火・燃焼させ、その推進力で弾丸を飛翔させ敵陣地に着弾破裂させる曲射弾道火器で、主に山越えで射撃することが出来敵に発見されにくい状態で敵に損害を与えることが出来るという特性を有するものです。その火器は、本来弾丸を砲内に装填した途端爆発するはずがないのですが、それが砲内に弾丸を装填した途端に爆発するという想定外の事故が発生し大惨事になってしまったのです。

原因は結果的に不明とされましたが、「数万発に一発」不完全な弾丸が製造された可能性があると考えられました。弾丸は全て機械作製されますが、稀に欠陥ある弾丸が作られると言うことです。
私自身は、事故発生の真の原因は「亡くなった6名の持つ因縁(いんねん)」にあったと考えます。因縁というものを考える上で、「その日・その時刻・その場所に6名が集合した。」という事実こそが重要なのです。

当日は、81ミリ迫撃砲の射撃競技会で弾着は採点の対象でした。ところが、最後の採点射撃で1発採点できない不明弾があったので「1発だけ再射撃」となったのです。その最後の1発が、それを射撃した4名の分隊員の命を奪いました。他の2名のうちの1名はその射撃を指揮する小隊陸曹、6人目の犠牲者は砲の射撃には直接関係ない人物でした。
その人物は、連隊本部の幹部で射撃競技会の計画担当者であり、彼は小高い山の上で弾着観測をしていたのですが、採点弾にして最後の1発と言うことで山から下り、砲分隊の少し離れた真横の場所に立ち射撃の見学していたのです。

砲内で爆発した弾丸は(爆風・破片により)一瞬で6名の命を奪ったのですが、砲の真横に倒れていた射撃競技会の計画担当者を見てある隊員は最初、「この人、何でここに寝ているのだろう?」と思ったそうです。倒れている彼の額に、たった一つだけ破片が貫通した痕跡がありそれが彼にとり致命傷でした。砲の爆発により発生し飛翔した破片の(たった)一つが、砲の真横で見学していた計画担当者に命中したのです。

以上が大まかな事故の概要ですが、全ての出来事は他人から聞いた(私にすれば)又聞きです。それは何故かと申しますと・・・私は、「当日、その現場に居合わせなかった」からです。
事故が起こった演習に出発する前日、上司から急に「君は明日からの演習に参加しないで他の仕事をするように・・」と命じられ部隊に残留していたのです。
ですから、事故現場の悲惨な惨状も今まで見たこともないほど盛大な部隊の葬儀も、全く違う仕事を命じられある意味全く関係ない世界に住していたのです。

それは自分自身、思えば思うほど不可思議なことで事故が起こる前年の射撃競技会では、81ミリ迫撃砲の後方に位置して審判の補助をする係として勤務しておりました。ある意味経験者である私が、何故任務を外され関係ない仕事に回され演習不参加になったのか、全く理由が分かりませんでした。(それも演習出発前日に・・・)

亡くなった6名の中には、入隊して半年足らずで中隊に配属されたばかりの隊員とか、半年間の陸曹(正規採用隊員)になるための教育から帰ったばかりの隊員など、「なんでここで命を失わなければいけないのか?」と考えさせられるような人間がおりましたが、みんな共通の因縁を持っていたとしか考えられません。
「その日・その時・その場所で」彼らが全員集合したときに、81ミリ迫撃砲弾が大爆発を起こし6名は同時に一瞬にして命を失う。それは、全て始まる前からすでに決まっていたとしか言いようがなく避けようのないものだったのです。

因縁というものは本当に不可思議なもので、考えてみれば因縁のない人間などこの世のどこにも存在しません。自分自身が、どのような因縁を持っているかは後々になって自分自身の人生を振り返ってみなければ良く理解することも出来ません。個人の場合だと、徐々に因縁の萌芽が生育して「ある日突然因縁が出現」する場合が考えられますし、団体(数人から大人数)の場合だと「ごく短い時間で因縁が出現」する場合もあり、それは多種多様な状況があり「因縁はこういう形で出現します」とは表現できないものです。

また因縁には「ある種の力(パワー)」があり、物理的に今存在する事象に影響を与えずには収まりません。因縁がたしかに動いたときに「現象的に何も起こらない」ことは考えられず、何らかの結果をもたらします。大人数で因縁が現れると、より物理的な力(パワー)はアップします。
最もその結果は、悪いものばかりでは無く善いものにも十分起こり得るので過度に恐れる必要はありません。善根・功徳を積んでいれば善き因縁が出現し善き結果が現れることが予想され、ある意味「果報は寝て待て」ということも言えます。

文中でも紹介しましたが、因縁が発現した場合においても「全く関係しない者の存在がある」というのは特筆すべきことです。その事件に全く関係しない者はある意味当然と言えば当然ですが、関係者であっても「その範疇に入らない者がいる」というのはある意味不可思議なことですが、それは私自身が実際に経験したことです。