前回は↑ *カメラを盗まれてしまった為当時の写真はありません
1980年8月7日 ローマ 快晴 日本を出てから340日目
ローマ3日目の朝は気怠く明けた。イギリス娘達はいなかった。
しばらくの間寝ころんだまま窓越しに見える金色に輝くドームを見つめ、タバコを吹かしていると、彼女たちがドアを開けて入ってきた。
「グッドモーニング」
ルーシーが愛嬌を浮かべていった。
「眠れた」ジュリーが言う。
「ああ」
俺は気のない返事をした。
「はい、朝御飯よ」
ルーシーが紙袋を俺のベッドの上に置いて言った。
「朝御飯?」
「そう、私たちの分も入っているわ、一緒に食べましょう」
紙袋の中にはピザと牛乳が3つづつ入っていた。
昨夜彼女たちの持っていたワインを飲みながら、パスポートを盗まれたことを彼女達に話したから、彼女達はお金のない俺に同情してくれたのであろうか。
今までに何度も、列車の中や道ばたで食べ物をもらったことがあったが、これほど有り難いことはなかった。
ローマでの暗い気持ちも、このイギリス娘達のおかげで救われたようだ。
多少だが光が見えたような気がする。
イギリス娘達と今日はよく歩き、ローマの大部分を散歩。
トレビノ泉も見たし、あのオードリーヘップバーンの歩いたところは大部分見た。
1996年Scalinata di Trinità dei Monti
しかし気分が乗らない。すべては泥棒に合った為。それにしても悔しい。
一日10,000リラ3,000円の生活目標では生活も苦しい。
もっと華やかに最後は飾れるものと思っていたのに。
使いすぎが最後までひびきこのざま。早く日本へ帰りたい。
1980年8月8日 ローマ 快晴
毎日いい天気だ、しかし気分どうもぱっとしない。
ローマについてからろくなものを食べていない。
あと4日半の我慢だが長い、長い。
知り合った日本人とバチカンへ行こうとなったが、入場料を払わなくてはならないので、あまり気乗りしなかったが、運良く半ズボンの為中へ入れてもらえないらしく、彼一人が入場となった。
入場料を払わなくてすんだ。
もし半ズボンでなかったら入場料を払って中へ入ることになったであろう。
それほど今のお金の状態は苦しい。
バス代100リラも節約し、帰りは一人で歩きで宿へ。
なんと惨めな生活なのだ。
お金がなくなったら最後の夜は、駅泊りも覚悟しなくては!
1980年8月9日 ローマ 快晴
一日が長い、早く13日よ来い。
今日の夕食はピザ800リラ240円に牛乳。
昼食は中島さんと2人でパン、魚のカンズメ、スイカ、メロン。
スイカはローマに着いてから毎日食べている。
中位の大きさのスイカで800リラ。メロンは500リラ、スイカが大きく安いので今の主食になっている。
お金がないので一日が一段と長く感じられる、早く時間が過ぎて欲しい。
時間の過ぎるのを待つというのも大変なものだ。
お金もなるべく使わず、ただぼけーと時の過ぎゆくのを待つ。
もったいない話だがそれ以外、どうも歩き回る元気もないし、見たいという欲望もでない。望むはただ日本へ帰りたいという事だけ。
今日から又日本人一人、先日から同じ部屋にいた中島さんはスペインへ。
一人になると一段と時間の過ぎるのが遅い。早く日本へ帰りたい。
置き忘れと泥棒にあってからは気弱くなってなってしまった。
日本へ着くまでにも問題はある、
人生とはいったい何なのであろう、今こんなにも寂しい思いをしている。
今後の人生に確実な期待があるわけでもないし、ただ寂しく苦しいだけが予想される人生なのに。
何故日本へ帰らなければならないのか、人生は今日で終わってもいいのではないか。
すべての人間は何のために生きているのだろうか、考える人は少ないのか、何が人生なのだ。
ローマでの悲劇はすべては自分の荷物の置き忘れから。
あの置き忘れがなければユースに泊まり、パスポートを盗まれることもなかった。
一つの間違いのために大きく変わってしまった。
1996年Monumento a Vittorio Emanuele II
1980年8月10日 ローマ 快晴
昨夜は中国人のパリに住んでいる人が同室になった。
何となく顔が似ているので親しみがもてる。白人の顔よりはずっといい。
今日は8時頃起き、9時前にペンションを出たので一日が一段と長い。
今日の全食事は1,000リラ300円のピザを食べ、イラン人にもらったチキンと水で腹を満たした。
腹も減ってきたが何もする気がない、気力がない。
惨めな生活が続いているがその分、少しだがゆとりができ、明日はレストランに入ろうかと思っている。
一年中腹が減っているといった感じ。
こんな惨めな気分もまあいいだろう。
一人になると悲しくなってくるが、人がいるとなんとなく気分がまぎれる。
今日2組のイタリア人に優しく話しかけられた。
一組はBariから来たという女の子2人と男の子2人、もう1組はバスの運転手2人、どうにかスペイン語風イタリア語で会話、しかしどうしてもうまく通じない。
あと2日の辛抱でイタリアともお別れだ、我慢我慢。
日本に着くまで体をこわさないといいが。
まあ水だけで1週間生活できるとのことだから、魚のカンズメもピザも食べているのだから2週間はもつであろう。
今日の支出は1,500リラ450円。
1980年8月11日 ローマ 快晴
大使館へ行き、やっと手に入れた仮のパスポート、7,500リラ2,250円の支出でこれまた一段と生活が苦しくなった。
そしてPIAへリコンファーム。
まあ今日の一日何となく短く感じる。
しかしイタリア人という奴はどうも気に入らない。
まあイタリア人もいい奴はいるけど大部分は気に入らない。
隣のベッドにイラク人が来て、ギリシャで飲んだことのあるウーゾを飲ませてもらった。
あの白く濁るあの酒、ナツメヤシから作るそうだ。
節約してお金が少し浮いたと思っていたら大使館で7,500リラ払ったので、またもや厳しい生活。
今日の昼食はパンとトマト、水。
夕食はパンと牛乳、まあわびしい生活もいい経験だ。
昼食が1,200リラ360円、夕食が900リラ270円。
シャワーを浴びたあとは体がかゆい、これもいい経験で体が汚い証拠である。
1996Basilica Papale di Santa Maria Maggiore
1980年8月12日ローマ 快晴
いよいよ明日は出発だ、飛行機の飛ぶのを見ると無性に早く帰りたくなる。
しかし日本へ着くまではまだ安心はできない。
カラチでの一泊等、まだまだ問題はある。
今望むことはうまいものを腹一杯食べたい。
次に安心して横になりたい。もう神経をすり減らすのはいやだ。
あのローマユースホステルの前のあの一瞬はもう本当に二度と繰り返したくない。
イタリアの店の仕組みは全くアホ。おかげさまで今日は200リラ60円ごまかしてやった。
まああれだったら払わなくて済むが、それはまあ気が引けた。
まぬけなイタリア人ども相手にしてもしかたない。
本屋に日本人や日本のことについてのすばらしい本が沢山あった。
実にお金が貧しい、こんなにお金に苦労するのもまあいい経験になる。
同室のイラク人にウゾの様な酒は何でできているのかと聞いたところ、椰子の実のように大きくはなく、小さくナツメヤシのようなものでできていると言った。
酒の名はARAK。
イラク人の名前はHousan Ali Abood
いよいよ明日は飛び立ち、日本を出発したのが昨年の9月3日、何だかんだで約1年の海外旅行。
一番感じたことは日本の良さ、日本にいると解らないが海外に出て初めて体で感じた日本のすばらしさだ。
国によって国民性も大分違ってくるが、人間は国民単位ではなく個人、個人による。
国民性もやはりその個人に大きな影響を与えているがやはり、どの国にも良い人間も悪い人間もいる。
世界は日本と同じという日本人中年に会ったが、まあそれも言える。
しかし、日本ほどサービスの良い住み良い国はない。
日本は世界一の国であると思う。
そしてこの旅行で一段と感じたことは、何事も自分で求めなければならないということ。
どちらかというと受け身の性格、待つタイプなので、この点は大きな損をした。
この一年間の旅行、遊びであったからまあいいのかもしれないが、勉強不足であった。
日本出発の時の予定ではイギリス、フランス、スイス、イタリアだけの予定でいたので、まあ仕方ないがもっと資料を、そして何処に目的を置くか、良く考えずにただ日本を早く脱出したいと考えていたので、本当の放浪の旅となってしまった。
しかし今この旅に後悔はない。やはり日本を出て良かったと思っている。
今思うにもう二度とこんな経験は出来ないと思う。又したくない。
しかし、もしチャンスがあるのなら、今度は貧困の国へ行きたい。
最悪の国イタリア、その他の国は良かったとも悪かったとも言えない。
日本着まであと5日まる4日、この96時間、何事もなく無事日本へ帰れればよいのだが。
なんとなくどうも不安でしょうがない。
一人旅はいつも不安の連続、そして寂しい。
まあこれもいい経験で、今後にどのように良く影響してくるか解らないが、まあ孤独というものに対し、少しは強くなったと思えるし、何事も自分で自分のことをするというのも一段と理解できた。
しかし正直なところ、この旅行が考え方を変えたかというと、そんなものは全くない。と言える。
今の俺は5年前の俺と変わり無い。
何のために生きているのか、何をすればよいのか、全く解らない。
何かしなければと思うのだが、その何かが全くつかめない。
この旅行中出会った日本人は画家を目指す人、医者、レストラン経営、山小屋経営、ピアニスト、科学者、歌手、ギタリストといろいろ会ったが、皆目的を持っている。しかし俺にはない。
坂本龍馬じゃないが俺は遅咲きか、しかし今は幕末風雲の時代でもなければ、たよりになる竹一反平太もいない。桂小五郎も誰もいない。これが悲しい。
1980年8月13日 ローマ→カラチ 快晴
ローマでの1週間は長かった。
イギリス娘達とのプラトニックな3日間はあっと言う間に過ぎてしまい、3人で行ったコロッセオや、スペイン階段がなつかしく思われる。
その後の4日間は一人で街中をうろうろと歩き回るものの、いつも空腹感がおそい、観光気分などにひったていれなかった。
横目で日本人の団体さんをうらやましく見ていた。
毎食パンとスイカの生活は地獄である。
観光どころか、安くて腹が一杯になるものを探し歩いたが、結局パンとスイカにたどり着いたのである。
毎朝、開かれる朝市へ出かけていき、大きなスイカを下げて部屋へ戻ってくる。
結局ローマではレストランに一度も入らず、カフェへイギリス娘達と一度行っただけで終わってしまった。
ぼんやりと空港のロビーでローマでの出来事を思い出していると、目の前に若い日本の女の子が立っていた。
「一人で旅行ですか」
女の子はさっぱりとした服装のいかにもお嬢さんと言った感じである。
手に持っていたサンドイッチを紙袋の上に置いて彼女の顔を見上げた。
「そうです、これから日本へ帰る所なんです」
日本女性に話しかけられたのは一年間の旅行中、初めてかも。ちょっとどぎまぎして答えると、彼女はほほえんでいた。
飛行機のフライトまではまだかなり時間があった。
ロビーのベンチに一人で腰掛けうつろな目をして、サンドイッチをかじっていたから、哀れんで声をかけてくれたのであろうか。
旅行中、日本の週刊誌とスポーツ新聞が見たく、何度も団体さんに話しかけたが大部分の人は冷たかった。
それが今は団体の人が話しかけてくる、それも女の子が。戸惑ってしまった。
「一人で山登りですか、アルプスに行ったのですか」
「私たちはこれからギリシャに行くところなのですが、まだしばらく時間があるので話をしてもいいですか」
「ええ、どうぞ」
良く話す明るい女の子だった。
彼女も山登りをやるらしく、ピッケルが目について話しかけてきたという。
おれはただ彼女の問いかけに
「えー、」とか「はい」と答えるだけだった。
彼女は立て続けに質問ばかりする。
「一人旅で寂しくない」
「ええ」
「学生、それとも社会人」
「浮浪者です」
「エー!」
「会社を辞めて一年間の旅に出たんだ」
「すばらしいわ、ギリシャに行きました?」
「ああ」
「エーゲ海は綺麗だった?」
「ミコノス島が良かったよ」
「私たちは2週間のパック旅行なのよ」
「2週間で28万円よ、安いでしょ」
「はー」
「旅行で一番気をつけたほうがいいことあります」
「パスポートはちゃんと持ってたほうがいいよ」
「心配ないわ、添乗員さんが持ってるから」
「どうして旅に出たの」
そう、いったい何のために外国へ来たのだろうか、日本にいて、ただ時の流れに流されているのが嫌で、外国へ行けば何かつかめるだろうと思い旅に出たのに、今帰国となっても自分という人間がわからず、何もつかむこともできず日本へ帰っていく、又一年前の生活と同じ生活が始まるのだろうか。
返す言葉がなかった。
「それじゃ、そろそろ時間だから」
彼女は団体の一員となった。何ともやりがたい気持ちになり、サンドイッチをごみ箱に捨てて、ゲートへ向かった。
不安はたくさんある。この帰国のためのパスポートで本当に通用するのだろうか。
はたして荷物は無事カラチで受け取ることができるか、まだまだ先は不安だ。
1980年8月14日 パキスタンのカラチ 快晴
カラチ着午前4時頃。
心強い、カラチのホテルでは日本人が3人もいた。
ホテルはコロンバスホテル。まあ無事ここまでたどり着けたし、ホテルに泊まることもでき、今のうちは順調である。
午前中、乗り合いバスで近くの海岸へ行ったら、海岸に人がずらりと何のあてもなくただ座っていた。
ものすごい数の人がただ海を見ているのだ。何のために?不思議な光景。
その後博物館へモヘンジョダロとハラッパの遺跡から出た遺品の数々を見学。
やはり日本ともヨーロッパとも違う、しかし仏像のようなものがある。
話を聞くと今日はハッピーニュ-イヤー、パキスタンの新年なので海岸の近くは人と出店でいっぱい。
海から神様や仏様がやってくるのか?
ホテルで夕食後、日本人3人で隣のビアホールの様なところでシシケバブーとパンの揚げたようなものと、コーラとタマネギのサラダとアイスクリームを食べて乾杯。
しかし宗教上酒はなし。コーラを飲んで大騒ぎ。
しめて26ルピー約580円
その後MINI BUSのデコトラトラックで遊園地へ。
バスがすばらしく、本当のギンギラギン、トラック野郎。
マンゴジュース2ルピー、バス代は1ルピー(22.3円)
1980年8月15日 機内
カラチからバンコク、マニラを経由して成田へ
1980年8月16日 成田着
旅に出ると日本のことがなつかしく思い出される。
日本いるとテレビに映った見覚えのある海外の街がなつかしい。
常に自分のおかれている今に不満を持つが、いつかはそれをなつかしく思う。
思い出なんてそんなものかもしれない。
雨の日はパリを思い、晴れの日はセビリアを思い、寒い日が続くとニューヨークを思い出す。
心のどこかにこの一年間の旅の思い出がいつまでも心の中に残り続けるだろう。
1979・1980年の放浪終わり