前回の話が尾をひいている。
カブトムシは宿命を背負って生まれいづる。圧倒的存在感で雑木林に君臨する昆虫の王者の威に、ある時期までの少年が…いや、いい大人たちまでもが心を蕩(とろ)かされてしまう。雑木林に住む何千という虫たちに目もくれずただこの甲虫だけに…。
平凡な容姿に生まれついた筆者としては、もし虫に生まれ変わらなければならないとしたらぜひカブトムシやクワガタに生まれたいものだと常日頃から思っている。周囲の耳目を惹いてやまないスター冥利というものを一度でいいから堪能したいものだ。
しかし、当のカブトムシやクワガタたちは紛糾するかもしれない、「冗談じゃない。好きこのんでこんな鎧を着てんじゃないよ」と。甲冑に身をくるんで生きなければならなかった者の悲哀について昨今、考えさせられている。
「不明懦弱(ふめいだじゃく)」 とは識見状況判断に欠け弱々しく臆病であるという意味だが、武人として、この最も恥ずべき形容で語られた戦国大名がいる。大友宗麟の嫡男にして鎌倉以来の名門・大友家の第22代当主・大友義統(1558~1610)だ。
父・宗麟と母・奈多氏の夫婦仲が最悪であったことは前回述べた。劣悪な家庭環境がいかなる人格を形成するかというケーススタディの題材が義統の生涯といえよう。
決して、ネグレクトや虐待を受けたという訳ではない。むしろ父は父なりに、母は母なりにこの人物を溺愛した。この父母が子に要求する「孝」の形は異常であった。熱烈なキリシタンの父はキリスト教入信を執拗に求め、神仏の徒である母は仏門への帰依を迫るという家庭内はまさしく宗教戦争。父と母の両方の顔色をうかがいながら成長するという状況が人格にどのような影響を与えたのだろう。
こうしたトラウマが義統のいびつな行動としてあらわれたのが天正6年(1576)の日向遠征時のことである。父へのへつらいから領内の寺社(キリスト教義では悪魔の館であろう)を取り壊す一方、母への気遣いから同じ寺社へ戦勝祈願するという狂態を演ずるのだ。ただ、これは寺社財産を取り込むという戦時財政上の「思惑」があったと見る向きもないではなかろう。しかし志操の欠落という点でこの後、大きな失態をしでかすこととなる。
天正15年(1587)は義統にとって激動の年となった。この年、秀吉の九州征伐により、義統は島津氏の領土簒奪というくびきから解放され、豊後一国と豊前宇佐郡半郡を安堵されている。四月にキリシタン黒田如水の勧めで義統は入信。わが子がコンスタンチノという洗礼名まで授かったことに胸をなでおろしながら五月二十三日に宗麟は永眠(享年五十八)。奈多夫人もその少し前に亡くなっていることから、名実ともに大友家二十三万石の主となる。
しかし、六月十九日に秀吉はキリスト教禁教令を公布。権力者の顔色をうかがうことにあまりにも鋭敏になりすぎていた義統は即刻棄教し、激しく弾圧する立場にまわった。秀吉は後に二十六聖人の処刑で名高い禁教令(1596年)を断行するが、この時の禁教令はさほど厳格なものではない。
実情がわかるにつれ、この人物のあまりの尻軽さに周囲は呆れかえり、家臣や世間一般からの信頼を全く失ってしまう。
信条において節操のない人物だけに、臆病が招いたトラブルは数知れない。九州征伐の前年(1586年)、その前哨戦として秀吉は四国の大名・長曾我部元親や仙石秀久らを派遣。大友軍と合流し、島津勢と激突する。世に言う戸次川(へつぎがわ)の戦いだ。援軍を請うた立場であるにも関わらず義統は散々逃げ惑い、領国の豊後まで捨て去って豊前の竜王城に転がり込むのだ。援軍も壊乱して四国に逃げ帰る歴史的大敗。秀吉は九州攻略の出鼻をくじかれた形になったが、大友家を救うという大義名分の振り出し人である大友父子はお咎めなしということでとりあえず事なきを得た。
義統が着たくもない甲冑を着せられて戦地に追いやられるのは秀吉の統一事業完成後も続く。文禄元年(1592)朝鮮の役、義統は軍兵六千、軍船八十二隻に分乗して出陣する。黒田長政の第三軍に属し釜山から京城に入り、鳳山城に布陣。当初は勇戦したらしいが臆病の虫を抑えられたのはここまで。明軍に大挙包囲された平壌の小西行長から援軍を請われた時、義統はそれに応じなかったばかりか戦線から逃げ出してしまったのである。
この報告に激怒した秀吉が、戦地の義統にたたき付けた書状が「大友勘当の朱印状」である。「豊後の臆病者に申し聞かすべし」で始まる文面はまことに激烈、島津氏との戦いの折、領国を棄てて遁走したことまで蒸し返している。よほど腹にすえかねていたのであろう。即刻、日本に護送、領地没収の末、毛利輝元に預けられての幽閉生活5年を過ごす。武士として最大の屈辱の期間も彼にとっては安息の期間だったにちがいない。
義統が着たくもない甲冑を再び着せられて戦場につき出されるのが関が原の戦い(1600)だ。当初は東軍の徳川家康につくため工作するも、流されるようにずるずると西軍に。九州方面を担当し、旧領地である豊後の土を再び踏んだが、黒田如水に散々に蹴散らされ無残に敗北。あるいは故郷の地で腹を切るのが彼に残された最後の花道だったかもしれない。しかし、敵方にあっさり投降し再び幽閉生活の道を選択したのだ。
百戦百敗の戦歴においても不思議と処刑にはならない。慶長10年(1605)、短いながら48歳の天寿をまっとう。皮肉なことに名門「大友家」という名の甲冑によって命だけは護られてきたのだった。
カブトムシは幼虫時にどれだけ肥え太ったかで成虫時の大きさが決定する。成虫後にどれだけ栄養に恵まれても決してそれ以上成長することはない。幼少時の環境が成人後の器量を決定する。
最期は何やらヒトの話をしているのかムシの話をしているのかわからなくなってしまった。