組織というものを考えるとき、なぜこのような人物が淘汰されることなく、しかも累進し、大いなる職責を任されているのであろうと思うことがある。

 

   第三軍参謀長として旅順攻囲戦の作戦中枢を担った伊地知幸介少将(1854~1917)は、もしこの戦争がなければ薩摩閥の寵児として、幸福な官僚人生を全うしていたであろう。

 

 当時の薩長出身の青年がそうであるように伊地知もお膳立てされたエリートコースに乗って栄達の道を歩んでいく。陸軍幼年学校から陸軍士官学校(2期)を経て少尉に任官するとすぐにフランス留学を命ぜられる。

 

 フランスに三年滞在して砲兵科を学ぶが、語学力を買われ、当時の陸軍大臣・大山巌のヨーロッパ巡遊に随行。こうした縁もあって後に大山巌の姪を妻にめとっている。

 

 随行の任務を終えるとそのままドイツに留学。このような経緯から、正規の参謀養成期間である陸軍大学校を経ていないものの、日本陸軍の源流たるドイツ仕込みということで、

 

「この男ならなんでもできるだろう」

 

と、周囲に買いかぶりの雰囲気が醸成されていく。実際の戦闘でこの男にどの程度のことができるかなど誰もわかりはしない。ただ洋行帰りということが絶対的ブランドとなっていた。

 

 ちなみにドイツ留学時代には、後の第三軍総司令官・乃木希典の随行員も務め、懇意となっている。

 

 近代戦の知識という点では全く取るに足らず、ただ長州閥ということで総司令官に推挙された乃木と、能力が未知数の伊地知。血で血を洗う大難戦で彼らがコンビを組むことになった背景にはこうした情実人事もあった。人の命を賭け物とする戦争においては、お手盛りの人事などまったくの人災でしかない。

 

 このコンビの無能ぶりは前回でもふれてきたが、司令部としての最大の無能とは戦局全般を見通す想像力と構想力の欠如ということになろうか。

 

 当初、大本営が第三軍に割り当てた火器はお粗末というほかなく、はなはだしきは幕末当時の青銅臼砲も混じっていた。勝利を念頭に置いて、近代要塞に対峙していこうとする気概があるならば出征前の準備段階において大本営に激しく意見具申すべきであったろう。

 

 日清戦争の折、乃木希典(当時少将)が率いる歩兵第1旅団がわずか1日で旅順を陥落させたという楽観主義はたしかにはびこっていた。しかし当時は清軍が構築した簡易堡塁であり、要塞建造にかけては世界一をほこるロシア軍がその技術力の粋を集めて建造した近代要塞と次元がちがうことに彼らは気づかなかったのか。

 

 現に旅順港内に遁入した旅順艦隊を護る要塞砲の猛威に攻めあぐね、陸から旅順を落としてほしいと懇願してきた海軍から要塞の規模は伝わっているはずである。

 

 挙句の果て、「これだけあれば十分であろう」と踏んだ弾薬が総攻撃開始からわずか数日で底を尽き、以降、大本営への「弾薬よこせ」の泣訴が唯一至上の作戦のようになってしまう(陸軍全体が弾薬欠乏に悩まされているにもかかわらず)。想定の甘さによる弾薬の不足、作戦能力の拙劣さはすべて前線の兵たちの肉弾突撃であがなった。

 

 こうした中、大本営の肝煎りで、後に旅順攻囲戦の象徴ともなった新兵器が到来する。28サンチ榴弾砲(明治人はcm をフランス風にサンチと発音した)。口径28cmのこの巨砲は、浸入してくる敵国軍艦を迎撃するために日本各地の沿岸部にそなえつけられた特殊海岸砲であったが、旅順要塞の厚さ130cmのべトンを打ち砕くため、はるばる旅順まで運ばれてきたものだ(最終的には十八門)。

 

  しかしこの天佑にも伊地知は困惑の色を示した。砲兵科出身の彼には、べトンを砕くという物理的砲力計算(今回の場合、22cm以上の口径が必要となる)から、大口径の重砲がいかに必要かわかりそうなものだが、専門家としての奇妙な観点から拒絶反応を示した。

 

 砲座据付のための砲床工事にあまりにも時間がかかりすぎる(最低1~2ヶ月)というのだ。実際、この工事は十日足らずで完了し、伊地知の意見が机上論であることが明白となったが、この男がつくって見せた渋面の心底にあるものは大本営の容喙(援助なのだが)に対する強烈な縦割り意識に他ならない。

 

 この男の縦割り意識たるや救い難いもので、旅順攻囲戦の天王山ともいうべき二百三高地の戦闘でも害毒をまきちらした。

 

 この山はロシア軍が「ヴィソーカヤ・ガラ(高い山)」と呼んだ小山で、標高が203メートルあることから日本軍がこのように名づけた。

 

 この高地の戦術価値を最初に発見したのは海軍であった。連合艦隊は湾内に逃げ込んだ旅順艦隊を実力封鎖していただけに海上からの旅順の地形がよくわかる。旅順港内を一望でき、しかも防御線の手薄なこの高地を占領し、着弾観測所を築けば、山越しに旅順艦隊を砲撃することができる。

 

 海軍としてはバルチック艦隊到着以前に旅順艦隊を撃滅できればよいわけで、そのための陸軍による旅順攻略である以上、なにも正面の頑強な本防御線を大流血しながら一つひとつぬいていく必要はない。この二百三高地の戦術価値を認めた大本営はただちに満州軍総司令部に打電。総参謀長児玉源太郎にも依存はなく、再三再四、第三軍へ作戦転換を促した。が、伊地知はこれを無視し続けた。

 

 担当正面の作戦は現地軍が立てるということは統帥上の原則であり、この点、伊地知のとった行動に軍規上の問題があったわけではない。たしかに旅順要塞の火網は巧緻を極めており、たとえこの高地を占領したにせよ、他の砲台からの攻撃でどれだけこの地にふみとどまれるかわからない。

 

 ただ、ここで問題なのは、甘い想定に立脚した初動時からの失敗の積み重ねが柔軟な発想を奪い去り、あまつさえ周囲の賢明な献策にも耳をかたむけなくなることである。この意固地という愚行がこれまでの歴史の中でどれだけの人災をひきおこしてきたかを肝に銘じなければならない。

 

 結局、海軍からの強い要請もあり、第二次総攻撃(九月十九日開始)のときに二百三高地をお座なりに攻めてはみた。しかし小兵力による不徹底な攻撃だったため、攻略に失敗した…どころか、わざわざ敵に弱点を教えてやるような結果となり、本格的防御陣地の構築を許すこととなる。

 

 兵力の逐次投入という軍事上の初歩的禁忌を犯した故、いざ本腰をいれて二百三高地をとりにかかったとき、戦史にのこる大死闘を展開せねばならぬ破目となった。

 

 戦闘行動にもまったく創意がない。行動企図を秘匿するという意識もまったくない。予定の期日の予定の時間帯で、決まりきった突撃経路で日本兵はやってくる。ロシア兵は経路に向かって機関銃の引き金を引いていさえすればよかった。この司令部のしでかした行為は祖国防衛のための戦争ではもはやなく、ロシア軍に委託したジェノサイド(大量虐殺)といってよかった。

 

 現在、わが国は千年の歴史に刻まれるであろう国難(2011年3月11日、東日本大震災発生)をむかえている。天災に対する想定の甘さが引き起こした人災が随所に見られることは、今さら私がここにしたためるまでもない。

 

 だが、確かにいえることは連日、報道は現地の状況をつまびらかにし、事態収拾にむかって着実な一歩を踏み出している(少なくとも人災によって傷口が広がっているわけではない)ことを思うとき、一世紀前のこの事象と照らし合わせても、この国はたしかに成長を続けている。