生まれついてのプラプラシンドローム
「漫遊」という言葉の響きにえもいわれぬ浪漫を感じ続けてきた。元来が瘋癲(ふうてん)な気質(たち)で、大人になるほどひどくなってきた。
独身当時、一年の計画は休暇を軸に立てていた。そぞろ神の物につきて心を狂わせ、仕事のちょっとした間隙を縫ってはプラプラと見知らぬ土地を旅する。
この国の風景そのものが好きだったのかもしれない。とにかく車窓を走馬灯のように流れていくパノラマを堪能すべく電車は必ず普通列車(快速は可)。青春18きっぷには随分お世話になった。
ローカル駅刻みで乗客が入れ替わるので土地土地の人文の違いがよくわかる。播州は英賀保(あがほ)にさしかかったあたりで乗客の雰囲気が急にかしましくなり、関西圏に突入したことが肌で感じられる。
岐阜の関が原、垂井を越えるあたりから言葉つきが変わってくるだろうか。同じ日本人の中にも確かに人文の違いがある。一期一会の人々に風土の香りを感じとった時、うれしさや懐かしさの入り混じった甘酸っぱい感覚を覚える。鈍行列車の旅はこれだからやめられない。
結婚の挨拶に行くため、朝一の山陽本線岡山行きに乗り込み、乗り継ぎを重ね一日かけて東京まで移動した時はオクさんおよび親族ににかなり心配された。
それがトラウマだったのか今では一年間の休暇を管理され、息子たちの子守にかこつけてチョコチョコ武蔵野の地を散策するのが関の山だ。
前回登場の宮崎安貞(1623~1697)が隠密のように諸国を行脚した江戸時代前期はそんな能天気な旅とはいかなかったであろう。三百諸藩は各々半独立国の体をなし、街道は「関の山」ならぬ関所の山だ。
関所の通行証となる通行手形(厳正な審査の末、藩庁が発行)は持参者の身元、旅行目的、関所通過の要請、関係諸官への便宜・保護要請が記載されるなど現代のパスポートさながら。一つ藩境を超えるのも現代の海外旅行に等しいが、安全を保障してくれる大使館があるわけではない。たとえ異国の土と朽ち果てるとも、死に水をとる者とてない。隠密稼業ならなおさらのことだ。
当時の農業先進地は近畿から中国地方にかけてであった。安貞は各地の篤農家を訪ねては実地に農業技術を学んでいった。
長い視察の旅を終え、福岡に戻った安貞は志摩郡女原(みょうばる)村(現在の福岡市西区)に「宮崎開(びらき)」と呼ばれる農業試験場をつくり、諸国で学んだ農業技術を導入して実地に作物の栽培を始めた。わざわざ広島からヘッドハンティングしてきてまで、さらには隠密まがいのことまで強要し、藩が安貞に期待したのは年貢増収のための最先端の稲作研究だっただろう。
しかし、安貞が栽培し研究に力を入れたのは、煙草・木綿・菜種といった商品作物や工芸作物であった。作れども作れども年貢として搾り取られる米穀ではない。換金性が高く「農家万が一の助け」となる商品作物で農民の生活向上と幸福を願ってのことだった。農民を搾取の対象としてしかみていない藩側からすれば安貞の行為は決して愉快なものではない。実際、安貞は農民の側に立って生きることを決意したのであろう。再士官を断っている。
さらに、その栽培研究の内容を農民のために書き残したいと執筆を始めたのが後に江戸三大農学書の一となる「農業全書」だ。
この安貞の「男気」におおいに感じ入り、内外共の協力を惜しまなかったのが黒田藩お抱えの儒学者にして本草学者・貝原益軒(1630~1714)である。明の徐光啓が著した「農政全書」と照合しつつ考証学的な裏付けをほどこしながら、安貞の「農業全書」執筆の助言をしていく。
そして益軒が安貞に与えた最大のバックアップが、出版にあたっての序文をある人物に依頼したことだ。
昭和時代劇で大活躍したあの人物
その人物とは佐々十竹(さっさ じっちく 1640~1698)…、といってピンとくるのは相当の時代劇通だろう。通称・介三郎(本名・宗淳)、
「ひかえおろう!この紋所が目にはいらぬか!!」
でお馴染み(あのセリフは格さんだったか)の「助さん」こと佐々木助三郎のモデルとなった御仁である。
佐々木助三郎は、諸国漫遊する水戸黄門にお供する剣の達人という設定であるが、実在の佐々十竹は讃岐出身の僧・儒学者であり、還俗して水戸藩に仕官。天下の副将軍・水戸黄門こと水戸藩二代目藩主・徳川光圀(1628~1701)にその豪胆さと見識を愛され、光圀のライフワーク、さらには水戸藩あげての大事業となった「大日本史」の編纂にたずさわった(完成は1906年)。
「養生訓」等の著作で当時、貝原益軒の名声は天下に轟いており、益軒自らが序文を書いてもよさそうなものだ。わざわざ水戸藩士の助さん(ここではこのように呼ばせてもらう)の手を借りるまでのこともなかろう。しかしここに益軒の周到な計算があった。
助さんの背後には黄門様、つまり葵の御紋の威光がある。安貞の「農業全書」出版を苦々しく思う藩のお偉方も「ははぁ~」とひれふすしかない。
水戸黄門漫遊記はまったくのフィクションであるが「この紋所が目にはいらぬか」があながち虚構でないのが面白い。
かくして葵の御紋の威光の下「農業全書」全十巻が完成したのは1696年11月。翌年、安貞は世を去っている。享年74歳。
「経世済民(けいせいさいみん)」という中国の言葉がある。「経済(economy)」の語源にもなったが、本来は「世を経(お)さめ、民を済(すく)う」の意だ。宮崎安貞の「済民」の志に徳川光圀が「経世」で応える形で、近代農業に大きな影響を及ぼした農業のバイブルが陽の目を見た。
後楽園での一風景
緑深まるこの季節、母親に自然豊かな庭園を見せたいと、特別名勝・小石川後楽園(東京都文京区)に足を運んだ。
実は水戸藩江戸上屋敷内につくられた、光圀ゆかりのこの庭園を観ることで光圀の何かしらにふれたいという本稿の取材に、親孝行をかこつけたわけであるが、庭園の門をくぐった瞬間に長男がいかにもがっかりしたような声を漏らした。
庭園の背景に見事に東京ドームの白い屋根と高層ビルが入り込み、別に庭園に造詣の深いわけでもない小4の少年までが、その無粋ぶりに落胆の声をあげたのだ。
山々など背後の自然を景色に織り込む「借景」を日本の伝統的造園技法とするなら、特別名勝の名に恥じぬ庭園に仕上げた光圀には悪いが、この「借り物」は確かに形無しだ。
時の流れが「経世済民」の言葉を単なる「経済」にかえてしまったように、現代の経済活動が、背景を借りるという伝統的美意識を過去のものにし始めている。またそれが葵の紋所(幕威)を背景とする黄門様でも、さすがにここまでは「世直し」出来なかったか…、という連想と重なり、時の遷り変わりの面白さを感じた。
