カエルの子はカエル

 

 最近、二人の息子がガンダムにハマっている(2014年当時)。手先が器用になるようにと長男にガンプラを買い与えたのがきっかけだった。

 

 最近のガンプラはとにかくヤバイ。関節部分の可動範囲などタカラ(現・タカラトミー)のミクロマンを凌駕するのではないか。筆者は、やせてもかれても金型屋(零細の鉄工所だが)のセガレである。さらには、金型用のCAD・CAMの営業マンをやっていた経験もある。セミプロとしてコメントさせていただこう。バンダイの射出成形技術たるや恐るべし。

 

 第一期ガンプラ世代の筆者も、往時を懐かしみ、当時の再販キット(旧キットというのだそうだが)を組んで、息子たちの作る最新キットと出来を競っている。

 

 ケロロ軍曹(カエルだけに)よろしく嬉々としてガンプラ製作にいそしむ父子の姿に、最近、平成ライダーにハマり、ようやく息子たちと共通の話題がもてるようになった妻が焦りを感じたのかもしれない。

 

「まったく、自分が託(かこつ)けたいことばっかり教え込んで!」

 

 たしかに長男はプラモ制作ばかりでなく歴史マニアの道を歩みつつある。筆者がプチ星一徹になってしまっているといえなくもない。

 

シシの子育て

 

 長男(小三)と同じ位の頃、本気で征夷大将軍になりたいと夢想していた。現在の社会制度上、それがかなわぬと知るや、国事に奔走する志士に鞍(くら)替えし、以来、書生気質がぬけきらぬまま、いい歳になってしまった。

 

 しかし、家庭持ちになって、いつのまにやら、おのれが社会を変えるために奔走しようとするよりはむしろ、わが子をそうした人材にしたいと、完全に他力(?)本願に意識がシフトしてしまっていることに気づいた。

 

 志操を保つことは難しい。幕末の志士たちはどのようにして子育てしていたのだろうか。坂本竜馬や中岡慎太郎…、独身のまま生涯を終えた志士が圧倒的に多くサンプルが少ない。

 

 高杉晋作には東一(後に外交官)という一人息子がいたが、育児は妻・雅子にまかせっきり。まさかシシだけに千尋の谷に落としこそすれ、育てるのはまっぴらゴメンというのでもなかろうが。

 

 そんな中、他人であるどころか憎んで余りある仇敵の子を立派に育て上げた人物がいる。幕末の会津藩公用方・秋月悌次郎(1824~1900)だ。

 

 王城の護衛者―京都守護職・松平容保(かたもり)の片腕として、薩摩藩士・高崎正風らと暗躍。薩会同盟を実現して一時、洛中から長州勢力を一掃することに成功する(文久の政変 1863)。姦計多き人物のように思われるが、実像は、篤実を絵に描いたような人物だ。

 

 エピソードがある。明治になり、賊軍出身でありながら漢文の素養を買われ、熊本の第五高等学校で教鞭をとったが、「お雇い外国人」として赴任していたラフカディオ・ハーン・小泉八雲をして、「神が姿を表すとしたらこの老先生のような姿だ」といわしめたほどの君子ぶり。

 

 論語の泰伯篇に「君子とはなんぞや?」ということに言及した一節がある。

 

「以(も)って六尺(りくせき)の弧(こ)を託(たく)す」

 

 幼いみなし児を安心して託すことができる人物が本当の君子であるという意だが、それにしても天が悌次郎に託したのは、なんと長州藩・桂小五郎の実子だったというのだ。このあたり、あまりにも田舎芝居じみてきて筆勢もひるむが続ける。

 

 先の政変で京都を追放された長州が失地回復のため、京都市街でやぶれかぶれの大暴発をやらかしたのが禁門の変(1864年)だ。市街が大混乱の様相を呈す中、戦闘指揮する悌次郎の部下が乳飲み子を抱えた女乞食を切り捨てた。避難民との軋轢からおこるトラブルの一つだが、憐れに感じた悌次郎がその女を介抱。深手を負った女が息をひきとる間際に悌次郎に託した遺児が桂小五郎の血を引いているというのだ。

 

 その女はれっきとした五百石取り旗本・高津盛之助の娘だという。小五郎が江戸三大道場の一つ神道無念流・練兵館の塾頭をやっていた当時、屋敷が隣接していたことから懇意になり、やがて男女の交情のいきつく先として娘は身ごもった。小五郎が江戸を発った後に出産したが、高津家では長州藩士の子であることをはばかり、母子を日陰者としてあつかった。

 

 せめて父親に一目あわせたいと京へ向かったが道中で路銀は尽き、乞食同然の姿で京に入りはしたものの洛中は火の海だったというのだ。

 

 託された子の名前は小弥太。悌次郎は秋月小弥太として立派に育て上げ、明治9年、箱根塔の沢で療養中の小五郎(この時には木戸孝允)を訪問。当時見聞きしたことを小五郎にあらいざらい話したというが、小五郎がどのような反応を示したかは記録されていない。もっとも、小五郎は当時、脳病を患っており、正常な判断ができたかどうかは不明だが…。

 

 綺羅星の如き幕末の志士たちの中にあってひときわ異彩を放つ巨星・桂小五郎のDNAを会津武士の典型ともいえる秋月悌次郎が薫陶するという歴史マニアが色めき立つこのお話、ソースは新潮文庫刊・「司馬遼太郎が考えたこと2」に収載されている「幕末のこと」。

 

 作風としては史実に基づいた内容に仕立てられているが、司馬遼太郎氏が出世作「竜馬がゆく」などにより、時代小説家から歴史小説家へと脱却していく昭和39年当時に「文藝春秋」に掲載されたもの。フィクションの臭気がただよう。

 

 第一、小五郎が練兵館の塾頭をしていたのは1858年までの五年間。1864年の禁門の変の折に「乳飲み子」では計算があうまい。

 

 ただ、たとえ司馬遼太郎氏一流の戯作としてもキャスティングが絶妙だ。幕吏の追捕を逃れるため、但馬の城崎(きのさき)に潜伏中に旅館の娘とデキてしまい妊娠(結局、流産だったが)させた前科(?)のある桂小五郎。そうした江戸の恋があっても、さもありなん。

 

 唯一神とその御子イエスのみを信奉する敬けんなカトリック信者・小泉八雲をして「神のみ姿」といわしめた秋月悌次郎ならば、中東とイスラエル、イスラム原理主義者とクリスチャンの関係ほどに、会津と深刻な敵対関係にあった長州の子をあずかったとしても、さもありなん。

 

 明治維新そのものが倒幕派と一部の公家による日本史上最大の大芝居であったことを思えば、なんともかわいらしい余興である。

 

 ちなみに「秋月小弥太」でウェブ検索してみたが、ヒットするのはすべて個人による歴史ブログで、ソースはあきらかに同「幕末のこと」。

 

 同じ穴のムジナが何匹もいた。ムジナではシシにもなれまい。六尺の弧を託(たく)されることはないが、息子の趣味に託(かこつ)けて、東京中の模型屋を奔走している。