私は鹿児島県知覧町にある「知覧特攻平和会館」を二度ほど訪れたことがある。また鹿屋や大刀洗、阿見町の施設なども訪問している。そこに展示されている数多くの遺書や遺品を観るに付け、大東亜戦争末期に立てられた「特攻」という作戦は、はたして肯定できる作戦なのであろうかと疑問に思う。
この作戦の立案者は大西瀧治郎中将である。大西瀧治郎中将に関しては、様々な意見や感想があろうが、特攻発動後は妻とも別居しており、特攻隊員との約束通りに終戦翌日の8月16日に官舎で切腹を遂げている。
また彼は切腹時、かけつけた軍医に対しても「生きるようにしてくれるな」と言い、介錯すら拒み、長く苦しんで死ぬことを自ら望んだという。腹を切ってから10時間以上も苦しみ続け、息を引き取っているという。残された遺書には、
「特攻隊の英霊に日す。善く戦ひたり深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青少年に告ぐ。我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ、聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ。諸子は国の宝なり平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と世界人類の為、最善を尽くせよ。」
とあった。さらには、
「わが声価は棺を覆うて定まらず百年ののち、また知己なからんとす」
とも言っていた。自分がしたことは死んでも償えないだろう、百年たっても自分自身の汚名は残ると。
彼自身「これは統率の外道である」と語っていたのであれば、何の戦況分析やその後の展望のないままに、いたずらに特攻指令を出し続けた当時の軍司令部には、深い怒りと疑問を覚える。
しかしながら当時の戦局や欧米列強の苛烈な植民地政策をみれば、なんとしても米国側に日本という国家の恐ろしさを植え付け、国体の護持をはかり未来への希望のための命を賭した崇高な作戦だったとも言えるのではないだろうか。
私は「知覧特攻平和会館」の二度の訪問にて、出来うる限りの遺詠・遺書・日記を拝読しようと思っていた。しかし二度とも、最初のコーナーにて少年隊員たちの絶筆を読んで涙があふれ、次からはまともに見る事すら出来なかった。
自分自身で、しっかりと往事の命(みこと)たちの心に目を逸らさず真摯に受けとめなければ!と思ったが、どうしてもまともに対峙する事が出来なかった。
これは筆舌に尽くしがたい事であり、私ごときの人間が語るには恐れ多い事であるような気がする。現地にて買い求めた「知覧特別攻撃隊」村永薫 編 を見るに付け、その思いはより深くなる。
その表紙には「子犬を抱いた特攻隊員たち」の写真が大きく掲載されている。前列中央の子犬を抱いた隊員は、私の住む隣の県の命(みこと)で、17歳ということである。その屈託のない笑顔の裏にある、とてつもない自己犠牲の使命感と未来へ託す想いを感じざるを得ない。
特攻という作戦に対し批判をするのはたやすいし、軍部批判も当然であろうが、視点を変えた見方も私たち個人がそれぞれすべきだと思う。いまの価値観で当時の状況を批判批評することは、簡単にはできないのではないだろうか。
最後に、知覧特攻基地に関するサイトを紹介したい。様々な写真や、検証などが掲載されていて、必ずや参考になると思う。
サイト名:特集「神風特別攻撃隊」
http://landinggear2.web.fc2.com/kamikaze/index.htm






