児童虐待のニュースを目にするたびに、

「何の罪もない子どもに、こんなひどいことをするなんて。ただの○刑でも甘いくらいだわ。同じ目に遭わせて、子どもが味わった悲しみと絶望と苦しみを思い知ればいいんだわ」

なんて思ってしまっていた私です。

 



2020年6月、鹿児島県にいる恋人のところに会いに行き、9日もの間、自宅アパートの一室に3才の娘を閉じ込めて衰弱死させた母親の裁判員裁判が、2022年1月27日から東京地裁で始まりました。

この母親がしたことはあまりにもひどく、絶対に許されることではないと思います。
わずか3才の女の子が、最期の数日間をたった一人でどんな思いで過ごし、どんな苦しみの中で亡くなっていったのかを考えるだけで、本当に本当に悲しくてつらい気持ちになり、胸が締め付けられます。

裁判では、事件のあらましがつまびらかにされています。

と同時に、もう一つ明らかになったことがありました。

それは、この母親自身が、幼少期に実母から壮絶な虐待を受けていたという事実でした。

殴る蹴るの暴力は日常的で、たとえば手や膝をガムテープで縛られ、そのままビニール袋に入れられて数日間風呂場に放置されたり、包丁で切りつけられたり。

最終的に実母と義父は警察に逮捕され、被告であるこの母親は施設に預けられて育ったそうです。


実母からは「あんたなんか産まなきゃ良かった」「お前は何も言わずに笑っていればいい」などの暴言も、日常的に吐かれていました。

止まない暴力や暴言に次第に無気力になったこの母親は、常に実母の顔色をうかがい、笑ってごまかす子になっていきました。
施設にいた間も周囲の人々が実母と同じようにしか感じられず、何を言われても何を聞かれても笑ってすませる習慣が変わることはありませんでした。

中学生の時に再び実母と義父に引き取られることになりましたが、初めて会った時、両親は笑っていたそうです。
両親が何を考えているか分からず怖くて、けれど 「ああ、過去のことはなかったことにしているんだ」 ということは理解できました。
虐待されていた頃のフラッシュバックにも悩まされていたこの母親は、それからも毎日両親に怯えながら、ただにこにこ笑って過ごすしかありませんでした。

母親は、中学や高校時代にも、嫌なことがあっても親に対してするように笑って濁し、交際を申し込まれても、借金を頼まれても、いつも笑って承諾していたそうです。
虐待によって施設に入っていたことも、周囲の人に打ち明けることはできませんでした。

「 断れないからOKしていました。無理とか言えないからです。周りが付き合ってるから、うちとも付き合ってるだけなんだろうな。誰に対しても心から好きにはなれず、みんな一緒でした」

3才の女の子が亡くなる直接のきっかけとなった鹿児島旅行も、恋人の知人から誘われて、断ることができなかったのだそうです。
恋人のことはそれほど好きではありませんでしたが、"心に空いた穴を埋めるため"には必要な存在でした。
恋人の知人には7万円以上ものお金を貸すこととなり、何日間の滞在になるかも二人の言いなりでした。
鹿児島には自ら望んで行ったわけでもなく、3才の娘を一人で東京に残していたため、旅行中は全く楽しめず、けれど早く帰りたいと言い出すことはできませんでした。


こうして、幼少期の虐待被害経験によって形成された "流されやすく断ることのできない"人間性が、その後の母親の人生にずっと影を落とし続け、事件の発生にも深く関わっていたであろうことが、明らかになっていったのです。


裁判では、臨床心理の専門家による分析をもとに、弁護人がこの母親(被告)の特性を以下のように解説しました。
 

「未成年のうち大半を施設で暮らし、愛されて育つ経験ができず、また実母から壮絶な虐待を受けたことで心に深い傷を負ったことにより、被告には "解離的自己状態" "強い愛情欲求" "断れない心理" があり、これが事件に影響した」
「過去から今までの歴史と、将来への展望があって、人は自己が確立されるが、被告はひどい虐待の経験から過去を否定し、空虚な自分になった。過去を否定するしかないため、カバーストーリーが必要になり、たとえば過去の交際相手に 『大阪出身で母親と仲がいい』 などと嘘をつくなどの行為にもつながった」

「過去を『ないもの』として生きていると、再び愛されて過去を埋めたいという心情が出てくる。そのために親密な人間関係を求める傾向が生まれるが、自己が空っぽであるため、希薄な人間関係しか築けず、次々と男性関係を求める。被告は被告人質問で 『自分の中に穴が空いていて、埋めようと必死だが、埋まったことがない』 と述べたが、愛情を求める欲求が強いことが、母親としての自己ではなく1人である自己が優勢になった一つの要因として説明できる。また、断れない心理は鹿児島行きに歯止めがかからなかった要因でもある」




これらの記事を読んで初めて、

「3才の子を一人残して、9日間も恋人に会いに行っていたなんて、とても人間とは思えない。○刑にしても足りないくらいだわ!」

と短絡的に考えていた私は、この母親もまた児童虐待の大きな犠牲者であることに初めて思い至ったのでした。


子ども時代にちゃんと愛された経験がなかったからこそ、大人になってからもこの母親は、誰かに愛されることを追い求め続けずにはいられなかった・・・とうことなのですよね。

誰かに愛されたい。
けれど誰にも愛されたことのないことからくる心の穴はあまりにも大きすぎて、誰かを愛することもできなければ、自分に向けられた愛情を信じることもできない。
誰とも愛情も信頼関係も築くことができないのに、それらを永遠に追い求め続けずにはいられないなんて、なんて哀しいのでしょうか・・・。

弁護人の方の言葉にもありますように、今度は自分が児童虐待の加害者になってしまったこの母親は、自分が生きていくために自分が満たされることに精一杯で、わが子よりも自分を優先してしまった、ってことなのですよね・・・。



最初にも書かせていただきましたように、この母親がしたことはあまりにもひどく、亡くなった女の子の短い命を思うと、絶対に許すことはできないと思います。

ですが児童虐待の負の連鎖は、ただただ厳罰を科すだけでは決して解決できないのでは・・・ということを、私はあらためて知ることができました。



と同時に、子どもが一人の強くしなやかな人間として成長するためには、赤ちゃんの頃からの母親、あるいは母親でなくても父親や祖父母など、無償の愛を身近で注いでくれる存在が不可欠なのだということを、強く思い知りました。
 

 

 

 


この間、私の記事に対していくつものコメントやメッセージをいただきました。

同じような経験をお持ちの方々からのご意見は、いつもとても勉強になりますし、励みにさせていただいております。
本当にどうもありがとうございます。


そしていただいたご意見の中には、娘のことを心配して下さっているものも複数ありました。

 

 

過去の記事で何度も触れさせていただきましたように、私の母はディスり名人です。
おそらくASDの傾向があり、思ったこと――特に否定的なことをすぐに口に出してしまいます。
しかもそのことを自分では気が付いていませんし、悪いとも感じていません。

とはいえ仕事をしながらも一生懸命愛情深く育ててもらったので、家族仲は良好ですし、私にとっては大切な母親です。

 


一方で、私の自己肯定感の低さはこの母親の影響も大きいと感じておりましたので、私は

「自分は必ず子どもを褒めて育てよう」

と心に決めていました。


また私は、母親に対して、
「どうせまた否定的な意見を言われるし、私が悩んでいると知られて悲しませたくも心配をかけたくもない」
という思いから、学生時代も今も悩みを相談することができずにいます。


ですが何となくアメリカのホームドラマに憧れていた私は、

「いつもみんながリビングにいて、何でも話せて、悩みごとも相談できるような家族を作りたい」

と考えていました。



残念ながら最初の "褒めて育てる" の方は、娘に関しましてはADHDによるやらかしがあまりにも多すぎて(*しかも当時はADHDだと分かっておりませんでしたので)、怒るのと褒めるとの比率がおそらく10対1~2くらいになってしまいました。


それでも2つめの目標の方は、結構叶っている気がします。

みんな自分の部屋に行くのは寝る時だけで、いつもリビングにいて、学校での出来事や友だちのこと、恋愛の話など、うるさいくらい自分のことを話していました。

娘(長女)や息子と比べると次女とは少し心の距離があり、普段から頻繁に連絡を取り合う方ではありません。
でも、鬱っぽくなった時、仕事や将来や恋愛問題で悩んでいる時など、本当に必要な時はちゃんと相談してくれるので、それなりに親子の絆は保たれているように感じています。

ただ発達障害のきょうだい児として負担をかけてしまっているので、今後は、そしてこの先もずっと、二度と次女に負担を負わさずに済むような方法を考えていかなくては・・・と思っています。
(*kabaさん、以前から何度も教えて下さってありがとうございます。kabaさんのアドバイスがなければ、私は次女の苦しみの深さに気付くこともできなかったと思います。本当に感謝してます泣


このブログの主人公である娘につきましては、ADHDであることが判明した2年前よりも以前は、とにかく叱ってばかりでしたが、

「お母さんが忘れっぽい人で助かった。私なら、もし自分が自分の娘だったら、絶対にとっくに見捨ててるわー。なんなら○してるかも」
「中学や高校の頃は、さっきまで怒鳴りまくってたお母さんが1分後には普通に世間話を始めたりするのを見て、『この人、頭ヤバくない? 記憶障害でもあるのかな?』って本気で思ってたわ」

なんてことを笑いながら話せるくらいなので、あれだけ叱りまくってはいたけれど関係は比較的良好・・・と自分では感じています。
(*この会話のどこからそう受け取れるのか・・・我ながら疑問ですが不安

 

 

娘の進路につきましても、高1の時に成績が悪いながらも理系に進むことを選んだのは娘でした。
高校中退という経歴から、資格が取れる学部を勧めたのは私たち親ですが、今の学部を選んだのは娘本人です。


初めて卒業留年をしてから2年前にこのブログを始めるまでは、私たちの中に

「せっかくここまで来たのだから」
「せっかく今まで授業料を払ってきたのだから」

という気持ちが強くて、ここであきらめる(=自主退学する)という選択を娘がしないように誘導してしまったことは、確かに否定することはできません。
(*当時のことは2020年1月の記事にその過程を書かせていただいております)

 

 

ですがその後、娘にADHDとナルコレプシーという障害があることが分かり、この現状は娘のせいではないと理解できるようになってからは、私たちが娘のことを叱ることはなくなりました。
(*この2年間、多分1回か2回、それも軽くしか怒っていないのです、本当に!!あんぐり

 

 
このブログを始めた当時の娘は、私たちに怒られるのが怖くて、卒業試験に落ちたことを報告できず逃げ回っておりましたことも、過去の記事で紹介させていただきました通りです。

ですが私たちが怒るのをやめた今は、去年も今年も、ちゃんとすぐに報告してくれるようになりました。
(*いや、そもそも去年も今年もそんな報告をしないといけないことが問題なのですけれども)

 

そんな変化も、私が怒ることをやめたことの効果かな、って感じています。


また今年は、本心から

 

「どうする? もう一年頑張り続けるのがしんどいなら、もう他の道を探してもいいよ」

 

と問いかけた私に、娘は

「もう一年頑張る」

と自ら答えました。

 

 

正直、この先いくら頑張ろうと卒業して国家試験に合格できる可能性は高くないでしょう。
だからこそ、これから最終的に放校となるまでの毎日は、

「頑張ったけど無理だったのだから、仕方がない・・・」

と、娘自身と私たち親の両方があきらをつけるために必要な日々になるのかな・・・とも感じています。

 


でもそれも人生です。


もし今の時点で自主退学して、

「合格できる可能性はゼロではなかったのに、なぜあの時あきらめてしまったのだろう」

と長い人生のどこかで後悔するくらいなら、

「やるだけやって、ダメならまた1からやり直す」
「新たな道を模索するのは、それからでも遅くない」

と、もう少し頑張り続けるのも悪くはないのでは・・・と思っています。
もちろん、娘が「もうやめたい」と言い出すまでは、ですけれども。

ただ、娘が「もうやめたい」と私たちに言い出せないでいる可能性は確かにゼロではありませんので、これからはその点にもちゃんと気を配っていかなければ・・・とあらためて考えさせていただきました。

 

 

 


それ以前に、これだけ試験に合格できない娘に、果たしてその職業に就く資格(適性)があるのか? という問題もあります。
 

 

資格が必要な職業は特に、責任もあれば、働き始めてからもずっと勉強し続ける必要があります。

スタート地点にすら何年も立てずにいる娘、しかもADHDやナルコレプシー持ちの娘には、確かに向いているとはいえないかもしれません。


ただ、分野は違いますが専門職にいる私が感じているのは、学業成績の善し悪しが職業人としての善し悪しには必ずしも結びつかないのでは?、ということです。


学業成績は悪いし、いろいろやらかす「人間失格」の娘ですが、意外なことに人間関係のトラブルはほぼありません。
人の悪口も言わなければ、怒っているところもほとんど見たことがありません。

 

私に怒られると石のように黙り込んでいたことは周知の通りですが、人に腹が立つことがあっても 「まぁ怒っても仕方ないし」 と一瞬で鎮火してしまい、怒りが持続しないらしいです。

だから我慢しているわけでもないようです。

大学のペーパー試験では点は取れませんが、1年間の実習の成績は学年で3位で、まるで別人のように生き生きと楽しそうにこなしていました。


そんな風に、ダメ娘ではありますがそれなりにいいところもあるので、

「もしかしたらこんな娘でも、国家試験に通って社会に出たら、案外上手くやっていける可能性もあるのでは・・・はてなマーク

という希望的観測を捨てきれずにいます。


それに専門職は、場合によっては働く場所や働き方、仕事の内容をある程度自分で選ぶことができるという利点もあります。
ある職場ではダメでも、別のところだと何とか上手くいくことだってあり得ます。

働き始めてみて初めてその仕事の面白さが分かるかもしれませんし、逆に自分には無理だと気付くかもしれません。
(*私も、実際に働き始めてみるまでは、自分の職業について本当のところは何も分かっていませんでした。学生の頃は「何で勉強しないといけないの?勉強なんて大嫌い」と思っていましたが、働き始めてようやく好きになることができました。)


社会で必要とされるのは、学業成績よりも人間性だったり、人としての"しなやかさ"だったりする気がしますので(*ある程度の『鈍感力』も大切ですよね~知らんぷり、 自分にその職業の適性があるかどうか、ちゃんと働くことができるかどうかは、勤め始めてみないと分からない面もあるのでは・・・って思うのです。


だから、こうして今の道の途中にいる間は、とりあえずもう少し進んでみて、「もうおまえには無理だ」と引導を渡された時に初めて、また次のことを考えたらいいのでははてなマーク と考えているのですが・・・甘いでしょうか? ?


これまでさんざん道を踏み外しまくっているので、もう何年遅れようが、本人がそれなりに楽しくやっている限り、これ以上の崖の下に落ちることはない・・・という感覚になっています。

 

 


娘が小学生の時から、さんざん道に迷い、先の見えない中でその時その時の選択をしてきました。
結果的には間違っていたかもしれないけれど、どれもその時々では精一杯の必要な選択だったと思っています。
失敗から学べることだってないわけではないと思うので、失敗を失敗で終わらせないで、どう捉えて今後の人生に生かしていくかは、要は本人(とまわりの人間)の気持ち次第なのでは・・・?

――って偉そうなことを、自分に言い聞かせている日々です。

 




そんなわけで、みなさまから見れば

「あちゃー、それでいいのはてなマーク 間違ってない驚きはてなマーク

って道を突き進んでいるかもしれませんが、今はもうしばらく自分たちが選んだ道を進んでみたいと思っています。

 

果たしてこの道はどこにつながっているのか・・・。

 


見届けていただいて、反面教師にしていただけましたら幸いです。

 

そんな中、皆さまからいただくアドバイスやご意見は本当に貴重です。
他では絶対に得られない機会であり、心から感謝しております。
どんなご意見の中にも根底には思いやりがあることが伝わってくるので、本当にありがたいです。

これからもどうぞよろしくお願い申し上げますお願い