雨やどりのおうちサロン

かおりのいえ庵のおかあちゃんです。


香りは未来の扉を開く

この言葉は息子が産まれていろんな壁にぶち当たって一緒に死んだらどんだけ楽になるかなって思ってた頃に何気ない会話の中で聴いた言葉だったように思います。



今だから笑って言えるけど

あの頃は自分ほど不幸な人は居ないって思ってました。

悪いのは全部周りの人くらいに思っていた時期でした。

そしてね。

中途半端に物知りなもんだから頭でっかちに先生の対応が悪いとか色んなことに不満だらけでね。


そのくせ物分かりのいい親してるからもうタチ悪いたらありゃしない。


予定日より1週間遅れて予定日超過で入院して誘発分娩となりました。


個人病院でしたので静かな感じで点滴をしながらその瞬間を待ちます。


1人目もそうでしたが薬が効かないんですよね。


夕方には産まれる?って簡単に考えていた私。


子宮口が全開になり本当ならタイミングに合わせて力むところがどんどん力が入って休みなく力んでしまう。


先生も頼むから止めろーと叫ぶけど止まらない〜と答えるのがやっと私


そして生まれた息子は4000g以上ある大きな子でした。


そして沐浴して先生からの一言

もしかしたら右手が亜脱臼してるかも知らないから様子見るねでした。


そしてその日は不安の中休みます。


次の日先生から分厚い医学辞典を渡され

分娩麻痺と言うところをよく読んで見て欲しいと言われました。

ドラマだと旦那さんが呼ばれて奥さんには内緒でとか言われるパターンなのにね。


そしてベットの中で泣きました。

5体満足に産んであげれなくてごめんねって。


今、思うとそれでも息子はラッキーな方でした。


すぐに近くの病院に看護婦さんに付き添われて受診をしてもらいました。

東海大学のリハビリの先生が月一で来てくれていたのですが。入院してる間に受診出来たことも幸運だったのです。

そして筋電図での診断

リハビリメニューが組まれ週一で通いました。


力の入らない右腕を毎日マッサージしながら固まらないようにするのが私の役目


家族全員で金曜日は温泉に行ってちょっとでも息子のためになると言うことは家族で頑張りました。


ただ

考え方って色々あってね。


お婆ちゃんはこれ以上悪くならないようにと言う考え方だったから家に居て危なく無いようにと言う考え方でした。

人と人並みに出来るようにと保育園に入ると同時に体操クラブに入れたら水泳クラブに入れたりと考えつくこと全部しました。


でもそれは母親の自己満足だったかもしれませんね。

そして3歳くらいの頃から近くの整骨院でマッサージを毎日行きました。とにかく固くならないようにとそればかり考えていました。


そして

手が動かないまだかしさと上手に気持ちを伝えられない息子は保育園でも時々お友達とトラブルになりました。


なんで?なんで?普通ってなに?

この頃真面目に座敷牢とか考えていました。



そして中越地震

そして運命の出会いが始まります。

山古志闘牛との出会い


彼がどんどん変わっていくんです。

動かない右手を上手に使って闘牛を引き回します。


そこにいる人が息子の右手のハンデなんて無いかのように声かけをしてくれます。

牛の世話をしながらどんどん自分の居場所を作って行きます。

時にはしんどい時もあったんだと思います。


小学校の高学年から中学校と不登校との闘いです。

残念ながら金八先生はいませんでしたね。

でも高校で素敵な教頭先生と出逢い彼は自分の居場所を作りました。



そして

夢の農業大学校へ進学し畜産の基礎を学びました。


初めての寮暮らしでした。

今は毎日大好きな牛を育てています。


息子も辛い思いを沢山してると思います。

母親を恨んだこともあると思うんです。


でも私達はその時出来ることを頑張ったと胸を張って言えるんです。


もし今、分娩麻痺で検索してこのブログを読んでいるお子さんに言える言葉


お母ちゃんはあなたの応援団

君の未来のサポートは絶対にするから!


お母ちゃんが子育てしてるころ分娩麻痺のことを書いてるブログも少なくて心配で怖くてね。


だからこそ今少しでも役に立てばと思い書いてます。



もし今進路で悩んでいるならば

まずは自分が何をしたいか!考えてみてください。