母ちゃんありがとう〜我が母に勝る母なし〜 | OCTAGONとVALE TUDO

母ちゃんありがとう〜我が母に勝る母なし〜



 

「十億の人に十億の母あらむも我が母に勝る母ありなむや」 暁烏敏師


「全世界が子を見棄てても母が子の全世界となる」アーヴィング



母は偉大です。


重たい内容が苦手な方はこれ以下には進まれないようお願いします。



5月下旬、初夏の空気漂う月曜日の夕暮れ、母は闘病から解放され眠るように人生という旅路を終えて、新たな旅に旅立っていきました。


施設に入居して11年、病を診断されてからは18年の闘病生活。

コロナ禍以降はほぼ1日の大半を眠っているような状態でしたが、時折目を開けてはこちらを見てニコッと微笑むこともありました。


小さな頃から厳しさを前面に出した母でした。

他人の嫌がること、弱者をいじめるようなこと、そんなことをした時は容赦なく怒られ時には引っ叩かれました。

反面、僕が日頃の悪戯っぷりから小学校の先生にやってもいないのに物を壊した疑いをかけられた時は全力で僕の盾になってくれました。


不器用で一生懸命、曲がったことが大嫌いで、良くも悪くも世話好きで自分が損してでも人に手を差し伸べるような母でした。


僕が中学3年の初冬、父を50歳で亡くした時は先々の不安に押しつぶされそうになり、仲の良い姉(伯母)の前でだけは号泣していたとかなり後になってききました。

そんな中でも身体も辛かったろうに、毎日淡々と朝早くから働いて僕と姉を高校まで卒業させてくれました。


そんな母を見て僕も高校合格と同時に家のすぐ近く、学校にもバレないところでアルバイトを始めてお金を稼ぐ大変さを学ばせてもらいました。


高校で勉強そっちのけで部活とアルバイトに没頭してしまい、成績は下から数えた方が早いくらいになってよく母と口喧嘩になりましたが、それでも見守ってくれました。

高校三年、進路も決まりかけた秋、僕は問題を起こしてしまい退学処分か停学処分かとなった時、学校に呼び出された母は生徒指導の教師らの前で僕を思い切りひっぱたいた後、涙を流して教師らに頭を下げてくれました。


今思い出すと本当に自分は子供でした。


社会人になり、成人式をこえ、それでも常日頃口うるさく言う母に嫌気がさし、徐々に家に寄りつかなくなってしまった時もありました。

姉も嫁いで家を出た後、自分の我ばかり押し通して母を一人にしてしまった時期が今思い出しても後悔で、時が戻せるならあの当時に戻って母ともっと話してみたいですね。


そんな時期を越え、自分も30代を越えて家での同居を再開した頃、まだ仕事を続けていた母に徐々に異変があらわれました。

もの忘れが頻発し、毎日同じミスを繰り返す。

30年近く勤めてきた母はなかなか自分で認めることが出来ず、医者で受診させようにも「会社休んだら迷惑かかる」となかなか医者に行こうとしませんでした。

なんとか医者を受診させようと毎日のように生まれて初めてというくらい母と話しました。


「母ちゃんにずっと元気でいてほしいから」

面と向かって初めて言った言葉に母はやっと重い腰を上げて医者についてきてくれました。


予想はしていましたが診断結果は「最初期のアルツハイマー型認知症」


母には濁しましたが薄々自分でもわかっていたようです。

「あんたが大変にならないうちにお母さん老人ホーム行くよ」

帰りの車の中で唐突に言い出しました。


まだまだ日常生活まで送れない状態ではなかったので勤め先の社長さんにも事情をお話ししたところ

「こちらで色々サポートするから、お母さんを家に篭らせたらダメだ。

ここでみんなといる時間をもたせてあげよう」

と提案していただき、ここから2年余り、雇用を続けていただきました。


旅好きだけど飛行機に乗ったことのなかった母を飛行機に乗らせてあげようと、姉夫婦や孫二人も誘って「おばあちゃんを北海道に連れて行こう」と急いで計画もしました。

初めて飛行機に乗って離陸する時の緊張した顔は忘れられません。


花と歌が大好きで「次は沖縄に行きたい」と言っていた母でしたが、それは叶えてあげられませんでした。


投薬の影響から好不調の波が徐々に激しくなってきた母は徐々に日常生活にも支障をきたすようになり、悟ったかのように仕事も退職、家で好きな花いじりをしながら過ごすようになりました。


2013年5月初旬、GWを姉家族と旅行したり、親戚やご近所の方と顔を合わせて過ごした母はまだ出来たばかりの真新しい特別養護老人ホームに入所しました。

正直、もうこれ以降は住み慣れた家に帰ってくるのは外泊に耐えうる時か、または生涯を終えた時、と複雑な気持ちでしたが、帰る際に母はロビーまで降りてきて「しっかりやりなよ」と笑顔で見送ってくれました。


まだ元気だった頃は歩行訓練をしたり、ロビーでお茶を飲みながらテレビを観たり、と行けば何かしら動いていましたが、年々病状も進行し、居室で寝ている時間が多くなっていきました。


2019年頃にはいよいよ身体も弱くなり、ほぼ寝たきりの状態になりましたが、それでも面会に行って話しかけると目を開けて笑いかけてくれたりと一生懸命に生きていてくれました。


寿命、と言われた年月を過ぎた2020年、コロナ禍が猛威を振るう中、施設や医師と「もしもの時」を話し合いました。


胃ろう、や人工呼吸器をつなげてまで、というのは僕と姉で話し合ってお断りしました。

「母さんの生命力のままに、自然に生きてほしい」

そう思いました。

コロナ禍で面会も出来ない中、常に施設の方がLINEで画像や、映像を送ってくれました。


そしてコロナ禍も明けた2023年秋頃から、もう体力も限界に近づいてきた中、施設の方にも大事にしていただき、一日一日、命を繋いでくれました。

年を越して2024年5月、母の日を目前にした金曜日、仕事中に「容態が良くない」と連絡をもらい、仕事を切り上げて駆けつけたところ、僕たちの声に反応して目を開けてこちらをジーッと見つめていました。


母の日を一日中母の居室で母に話しかけて過ごした翌週末から徐々に衰弱が見えてきて、いよいよ僕たちも覚悟を決めました。


いつまでも生きていてほしい


そんなことを願っていましたが、やはりそれは叶わないもの


金曜の夕方、施設から母の呼吸が荒くなってきた、と連絡を受けて姉と駆けつけました。

もう体力も限界に近づいてきて、全力疾走した後のように肩で息をする母の手を握ってどのくらい経ったか、母がうっすらと眼を開き、僕と姉の方に顔を向けてきました。


意識は薄れていたと思いますが、耳は聞こえていたのかな


「母ちゃん、もう少しだけ頑張ろう」


もう数日だけでも、と願いながら母に語りかけました。


施設に入所した時からずっと大事にしてくれたヘルパーさん、職員さん

月曜日になれば出勤してくるよ、会えるよ

ちゃんとお別れしていこう


そこから母は生き抜いて生き抜いてくれました。


土曜日、日曜日と嘘のように穏やかに眠る母の手を握り続け

生んでくれてありがとう

育ててくれてありがとう

出来が悪くて何一ついいことしてあげられなくてごめん

と、そんな言葉が次々に溢れて涙が止まらなくなってきました


明けて月曜日、「ひとりぼっちで逝かせたくない」と姉も僕も仕事を休み看取りの準備をしていました。

容態は呼吸をしているのが奇跡に近いくらいに悪化していました。

朝になり、一人、また一人とお世話になった職員さんやヘルパーさん、また在籍している方々が母の様子を見に来てくれては声をかけてくれました。

もうお別れが近いんだな、とまた涙が溢れました。


夕方近くになり、小さくなった手を握り続けていると、何度もかすかに握り返してくれた母は、最後に駆けつけてくれたヘルパーさんの


「長い間お疲れ様。ありがとう。出会えてよかったよ」


という言葉に安堵したかのように眼をかすかに開き僕たちの方に顔を向けたあと、しばらくの後、僕と姉夫婦、溺愛していた孫に囲まれて本当に眠りにおちるように旅立ちました。


その顔は本当に微笑んでいるようでもありました。


2024年5月27日、母と僕たちの長い長い旅は終わりを迎えました。


母ちゃん、あなたの子供に生んでくれてありがとう。

出来が悪くて願い通りの息子になれなくてごめんなさい。

神様が許してくれるなら、またあなたの子供に生んでください。

不器用でも一生懸命に生きた人生、本当にお疲れ様でした。