先週お天気のよい日に、お隣の広島県までちょっと遠出をしてきました。



広島と言えば、もちろん安芸の宮島が有名なんですが、今回はそこではなく、その先の呉市方面へと向かいます。



その呉市街を抜けた後、瀬戸内の島々へとつながる「安芸灘とびしま海道」に入り・・。




途中の広場から、今渡ったばかりの安芸灘大橋を遠望して・・。



更に幾つかの小さな島々を渡り、「安芸灘とびしま海道」終着点の島「大崎下島」の東の突端まで。



おうちからここまで約220キロ、山陽自動車道を使ってほぼ3時間半、ようやくお目当ての高燈籠が見える町にやってきました。




潮待ち。


風待ち。


港町。


江戸期において、北前船寄港地および船主集落として賑わいを極めた御手洗(みたらい)の町です。






御手洗の町割りの絵図。

海に囲まれた小さな地形の中に、凝縮された町並みが整然と出来上がってる様がよくわかります。

ちょっとヴェネツィアの街を思い出しました。


寛文6年(1666)に町割りが許可された後、元々土地が狭かったことから何度も埋め立てが繰り返され、そこに大小の商家や船宿、お茶屋等が網の目状に建ち並び、港町として急速に発展していくこととなった、と・・。



海に向けての町の成り立ちと発展のあり方にも、ヴェネツィアと似てるものを感じます。




北前船航路の要衝として栄えたこの御手洗の町には歴史上の人物も多く訪れてたようで。


たとえば、こんな人たちも・・。



伊能忠敬

シーボルト

吉田松陰

坂本龍馬・・・



名前を聞いただけでもワクワクしますよね♪



そんな御手洗の町も、明治に入って後は、鉄道網の整備等による交通運輸体系の変化から時代に取り残されてしまいました。



けれども、そのことがかえって幸いし、今でも往時の栄華を偲ばせる風情ある町並みを見ることができます。



平成6年(1994)7月に国の重要伝統的建築物群保存地区に指定されています。



はい、大好物の重伝建です!笑



それでは散策を始めることとしましょうか。






家々の窓や玄関には、こんなふうにきれいな花々が飾られていて、町の方々からのおもてなしの心を感じることができます。










御手洗という地名の由来としては、神功皇后が三韓出兵の折にこの地に立ち寄ったとされるものが一つ。


もう一つは、菅原道真が大宰府へ流される途中ここに立ち寄ったことからだともされています。


その菅原道真ゆかりの地とされているのが、この天満神社。





これは菅公の碑。

菅原道真の歌碑とされ、こんな歌が刻まれています。

我たのむ
人をむなしくなすならば
天が下にて名をやなかさん

一説には、呪いの意味が込められてるとも💧






この社殿の裏手に、菅原道真が手を洗ったとされる井戸があるんですが。

すみません💦
撮ってませんでした💧


そんな訳で、ちょっと画像をお借りしました。


ここから大宰府まではまだまだ・・ですね💧



気を取り直して(汗)散策を続けることとしましょう。




こんな可愛らしい洋館も。







この建物は、新光時計店。

安政5年(1858)の創業とされ、一説には日本最古の時計店とも言われてるようです。

現在の建物は、大正8年(1919)のものとされています。



こちらは、御手洗昭和館。

昭和館、かぁ~。
レトロ感MAXですね♪



そして、この「乙女座」という名の劇場も。


まさに、往時の賑わいを象徴するかのような建物です。


内部もなかなか豪華。


客席は畳。





二階席から見下ろすと・・。


今でも十分使えそうですよね。



こちらの建物は。



幕末、長州藩と広島藩が倒幕への密約「御手洗条約」を結んだ場所でもあるとされ、あの坂本龍馬も宿泊したとされているようです。



そして。



この一際立派な構えの建物は何かと言いますと・・。



「若胡子屋(わかえびすや)」というお茶屋だったんですね。


かつてこの御手洗には、その隆盛を証明するかのようにお茶屋が4軒もあったとされていますが、現存するものはこの若胡子屋だけのようです。


奥座敷の天井や雨戸には、薩摩藩の専売品であった屋久杉が使われるなど、贅沢な造りになっているとのこと。

残念ながら、修復中ということで内部を見ることはできませんでしたが、外観からだけでも往時の賑わいは十分に想像されますね。


ちなみに、諸国色里番付(!)なるものがあって、御手洗は西前頭11枚目にランクされてたとか・・。(汗)



海側へ通じる路地。

こういう路地が多いのも、なんだかヴェネツィアっぽいなぁ~、と・・。


反対方向を見上げると、こんな石垣が・・。






満舟寺(まんしゅうじ)というお寺の石垣なんですね。

16世紀後半、四国攻めの前線基地として加藤清正が築いたとされ、「乱れ築き」と呼ばれる石積みだとあります。


石垣の上に広がる境内には、こんな観音堂が建てられていました。


屋根の下に「満舟寺」と書かれた額があるんですが、これは、文化4年(1807)に琉球使節一行が立ち寄った際書かれたものとされています。

(見えづらくてすみません💦)


それにしても、この「満舟寺」というネーミング。

北前船寄港地として栄えた御手洗の町には、いかにもぴったりな気がしますよね。


この満舟寺にはこんなものも。



誰彼(たそかれ)塚、とあります。

刻まれているのは。

海久礼亭
鴨能声
本のか耳白し

読めま~せん💦笑


松尾芭蕉の句なんだそうです。

海くれて鴨の声ほのかに白し

後で調べてみたら・・。

「野ざらし紀行」に収められていて、五五四三の「句またがり」で、芭蕉新風の第一歩として有名な句なんだそうです。

知りませんでした💧



満舟寺を過ぎた路地から海沿いの道へと出て。


この横長の建物は。


大洲藩、宇和島藩御用達の船宿だったようです。


現在はカフェに改装されていて。


お土産を買うこともできます。


二階に上がらせて頂きました。


お部屋からちょっと額縁風に・・。


宇和島藩士になった気分?笑



海沿いの通りには、他にも幾つかこういった感じの建物が残っています。






再び路地へと。



この建物は。




今度は薩摩藩!


とすると、我が長州藩の船宿もあったのかな?笑



この御手洗では、明治以降に建てられた洋館も幾つか見ることができます。


これは病院だったようですね。


お部屋の中から通りを覗くと・・。


窓の雰囲気もレトロ♪



格子窓の連なる船宿や白壁のお茶屋、そして、こうした洋館など。


さながら、江戸から明治大正にかけての建築物のモデル地区?

見ていて飽きることはありません。


でも、そろそろ戻ることとしましょうか。


潮風に吹かれながら、海沿いの道をのんびり歩いて・・。


海沿いにはこんな蔵も幾つか見られます。


これを見ても、かつてこの海沿いが、交易でさぞかし賑わったであろうことが想像されますね。



最初の出発点に着きました。



今回、実は御手洗に来たのは二度目だったんですが、芭蕉の句碑などいろいろと新しい発見もあって、や前回以上に楽しめました。


高燈籠が見える町、御手洗。





その高燈籠を遠くに望み・・。



♪瀬戸は日暮れて・・

でも、まだ夕暮れには早い時刻でしたので、もう1ヶ所行ってみようと思います。


その続きはまた・・。


ここまでご覧くださりありがとうございました。