馬酔木が咲いてた長府庭園。
その駐車場から国道を挟んだ海沿いの高台に、こんな石垣が見えてて。
以前から気にはなってたんですが、これまで確認できないままに・・。
でも、この日はお天気がよかったこともあって、ちょっと歩いてみようかな、と。
で、長い土塀に囲まれた某高校の橫を通って、海方向へてくてくと。
すると。
神社?
ちょっと寄ってみようかな?
と、坂道を上って行くと。
ん?
この家紋は、毛利家の家紋ではありませんか👀!
豊功(とよこと)神社と言うんだそうです。
歴代長府毛利藩主を祀る神社であるとのこと。
なるほど。
境内に入ると、奥にはこんな絵馬が。
なぜここに弘前城?!
説明を読むと、明治に入って、長府藩第15代毛利元雄公息女久子様が津軽藩第14代津軽義孝公にお輿入れなさったことを記念して作られたとのことでした。
そんなご縁があったんですね。
御手水には龍神様。
境内からは素晴らしい眺望が開けています。
満珠干珠の島。
写真からは一つに見えていますが、手前とその奥にそれぞれ分かれている二つの島なんだそうです。
元日の朝には、ちょうど島の真上辺りから素晴らしい初日の出が見られるのだとか。
説明看板にも書かれてありましたが、この二つの島にはこんな伝説があるとされています。
約1700年前、神功皇后は住吉大神の化身である龍神様から授けられた二つの玉を授けられました。
その潮満珠(しおみつるたま)潮干珠(しおひるたま)から生まれたのが、この満珠干珠の二つの島だと伝えられているようです。
日本書紀にも、それぞれ興津島・平津島と記述されているとのことでした。
尚、この島は、古来より忌宮神社の飛び地境内であるため、禁足の島とされたことから貴重な原生樹林帯となっており、国指定天然記念物ともなっているようです。
ちなみに、あの壇之浦合戦の折には、この満珠干珠の島が源義経率いる源氏の拠点ともなったとか。
船合戦においては当時タブーとされた漕ぎ手を射つことさえ厭わなかった掟破りの義経にとっては、禁足の島でさえ「そんなの関係ねぇ!」だったんでしょうね💧
それはともかく。
約800年あまり前、この海で戦が行われてたとは思えないほど、この日の海はのどかでした。
さて、それでは、先ほどの石垣目指してもう少し歩くとしましょうか。
こんな感じの路地を通って。
それにしても、国道から脇道に一歩入っただけで、こんな昔ながらの風情ある路地が続いてるなんて、ちっとも知りませんでした。
路地歩きが大好物の私としては、これだけでも十分楽しめましたが。
坂道を更に上って行くと、ようやくこんな広場に。
公園になってて、関見台公園と呼ばれているようです。
石垣ですねぇ~。
でもこの石垣、そんなに古いという感じでもありませんが、果たしてここは?
こんな説明看板がありました。
中世において、大内氏家臣だった内藤氏がここに城を築き、その後江戸期に入ってからは、長府藩初代藩主毛利秀元がここに城を再築し居城としたとあります。
そうなんですね。
こんな復元図もありました。
幕末期においては、この砦は既に城としての役目は終えてましたが、海峡を通る異国船を監視する見張り場として使われていたようです。
城跡から下りてすぐの広場からは、関門海峡と関門大橋を望むことができました。
「板子一枚下は地獄」、とは言いますが、お亡くなりになられた方々がおられたことには言葉もありません。
ご冥福をお祈りいたします。