防府天満宮の枝垂れ梅をルンルン気分で撮りまくってた日から、早くも3週間近くになるんですね。
ありふれた感慨ではありますが、月日が経つのは本当に速いなぁ~、とただただ呆然とするばかり💧
そう言えば、かつての職場でよく聞いてたこんな会話を思い出しました。
誰かが、
あ~、もう異動の季節の3月かぁ~💧と。
するとまた別の誰かが、
ついこの前入社したばっかりだと思ってたんだけど💧
ここで、またまた別の誰かが。
このぶんだと、定年まであっという間だよね💧
そこで、ドッと笑いが。
その頃まだ30代前半の私たちでしたが、今では笑えない冗談だったなぁ~、と💦
ちなみに、子供の時期に比べて大人が一年を速く感じるのは、一説には、大人になるにつれて感動や驚きが少なくなってきているからだとか。
そうかぁ~💧
それはともかく。
この方にとって、その生涯の年月は果たして長かったのか、短かったのか?
ふと、そんなことを考えてしまいました。
ご存知の方も多いと思いますが、自由律俳句の代表的俳人、種田山頭火です。
よく知られているのはこんな姿?
これらの写真が表す通り、その生涯のほとんどを旅の中に過ごしたことから「漂泊の俳人」としても知られている彼ですが、実は、ここ防府天満宮近くの大地主の家に生まれています。
そういった関係から、天満宮近くにはこんな建物が。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240307/16/131hisaom/71/f4/j/o1080076115410189473.jpg?caw=800)
山頭火ふるさと館。
平成29年(2017)年にオープンしてたようですが、不勉強ながら昨年夏まで全く知りませんでした💦
山頭火という俳人の存在はもちろん、彼の俳句も幾つかはそらで言えるほどには知ってましたが、正直なことを言えば、いささか思うところがあって、ちょっと敬遠してた部分もあったからかもしれません💧
詩人や小説家が高潔で聖人君子であるなどとは毛頭思っておりませんし、寧ろその真逆の精神性があってこそ紡がれていく言葉の数々もあるのだとは重々わかっていながらも、私から見た山頭火の生き方というものは、やはり理解と感情がどうしても追いついていかないものがあったというのが本当のところです💧
あ~、全国の山頭火のファンの方々、怒らないでくださいね💦
私自身、あの西行や「木枯らし紋次郎」のファンであることを自認してたほどですので(笑)、「漂泊」という点においては少なからずシンパシーを感じている部分もあるのですが、それを差し引いても、彼の妻子への関わり方を思うとやはり容認できない部分もあって💧
確かに、その生い立ちにはかなり同情すべきところは多々あるんですが・・。
最近よく某バラエティ番組などで「山奥で一人生活するおばあちゃんにはこんな壮絶な人生があった!」的な文言(キャッチコピー?)が飛びかってますが、いえいえ、それを言うなら山頭火の幼少期から青年期までこそがまさしくそ壮絶そのものと言えるでしょう。
現在の山陽本線防府駅前から天満宮辺りまでの北東地域、かつての旧山陽道に面したかなりの土地を所有していたともされる大地主の家に生まれた山頭火((本名・種田正一)ですが、その生涯はまさに波乱に満ちたものでした。
10歳の時に、父親の度重なる放蕩(遊廓等での女遊び)を苦にして母親が自死。
その後も父親の放蕩は収まらず、当然家産は傾き、その後始めた酒造業も上手くいかず破産同然となり、土地家屋のほとんどを手離さざるを得なくなります。
やがて一家は離散。
多額の借金を抱えた父親は行方知れず💧
既に結婚し一児をなしていた彼は熊本で再起を図るも、若い頃からの酒癖、というよりは酒乱に近い行状も原因し、商売にも失敗したことから更なる借金に追われ、妻や子供からも逃げるような形で離婚し、結局熊本を去って行くこととなります。
と、こう書いていくだけでも、なんだか暗澹とした気分に陥ってしまうのですが、以下の年譜にはその前後の事柄も含めた彼の事績が書かれてありますので、ご参考までに・・。
妻子と別れてからは、托鉢の僧として全国を行脚しながら、句友の援助等もあり俳句を同人誌に発表するなどして、漂泊の旅を続けることとなります。
そして、昭和14年(1939)、句友の世話により、俳句が盛んなことで知られる愛媛県松山道後に庵居を得、つかの間の安息の日々を過ごすことができたのですが、その翌年10月に一人孤独にこの世を去って行くこととなりました。
満58歳。
あの当時においても決して長いとは言えない彼の生涯でしたが、彼にしてみれば、果たしてどうだったのだろう・・と。
そんな山頭火の顕彰や継承を目的としたこの記念館。
彼が生きてたらどんな感想を持ったかなぁ~、などとも・・。
私が彼のことを、一種輪郭を持った像として認識したのは、あるドラマがきっかけでした。
1985年からNHKで断続的に放送された「花へんろ」です。
愛媛県松山市出身の脚本家早坂暁の自伝的要素の濃い作品で、昭和初期から戦争へと向かっていく空気の中で、生きづらさを感じながらも懸命に幸福を追い求めていこうとする、ある一族のサーガとも言える作品となっています。
早坂暁は、ご存知の方もおられるかもしれませんが、「夢千代日記」や後の活動等においても見られるように、反戦意識の強い作風としても知られる脚本家でした。
この「花へんろ」にも、早坂暁自身がモデルとも思える少年が、その当時の多くの少年たちがそうであったように国を守ろうとする熱い思いを抱き、本来の志望であった中学校から海兵学校へと進路変更しようとするのですが、それを必死で止めようとする母親の姿が描かれています。
そんなドラマの中で、件の種田山頭火の最期を表すシーンが描かれていたのですが、それをなぜか後々まで覚えてて。
演じてたのは北村和夫さんでした。
それが、私が種田山頭火という俳人を認識した最初だったかもしれません。
と、なんだかすっかり昔語りになってしまいましたが(笑)、そろそろ肝心の「ふるさと館」のご案内なぞ・・。
とは言いつつ、館内のほとんどの部分は例の如く撮影不可となっておりまして、一部、許可が頂けたところを少しだけ、ということになるんですが💧
扉を開けるとその正面には。
館内奥には、彼の生涯や旅した行程、そして、その旅の中で作り続けた彼のたくさんの俳句が展示してありました。
分け入つても分け入つても青い山
後ろ姿のしぐれていくか
どうしようもないわたしがあるいてゐる
雨ふるふるさとははだしであるく
・・等々。
さて。
建物を出ると、すぐ横の壁に「山頭火の小径」という表示と矢印が👀!
路地巡りが大好物の私としては、素通りする訳には参りません!笑
こんな「道案内」まであるとあっては尚更のこと。
で、この小径、最終的にはどこに辿り着くかと言いますと。
ジャ~ン!
こちらです!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240307/19/131hisaom/21/b8/j/o1080060715410257718.jpg?caw=800)
このお屋敷、何かと言いますと。
本陣があったんだったんですね!
これも、今回初めて知りました。
こんな新しい発見があるなんて。
街歩きはしてみるものです。笑
と、こんなふうに、種田山頭火に始まりながらも、結局は萩往還本陣で締めくくりとなるところが、いかにも私らしいとでも言いましょうか・・。笑
でも、この本陣跡にはちょっと感動!の私でした。
そんな訳で、今回もすっかり長くなってしまいました💧
山頭火の小径で咲いてた白い花。
ここまでご覧くださり、ありがとうございました。