現代では小学生でも稲作ができますが、
古代は厄介な作物でした。
白米が主食として定着したのは明治以降です。
鉄製の鍋、釜が普及したのは中世以降で、土器では調理に限界があります。
お米も、蒸す、煮る、炊くのほか精米が十分でないお米は、茹でてから炊くなど一度では調理できません。庶民は雑穀に米を混ぜるくらいです。
または、ハレの日のごちそうであり、病人の薬でした。
あるいは炊いたご飯を干して非常食にしたり、お米の粉にして団子にしました。
水気の多いお米は乾燥しにくく、ひどいときには冬の間に半分腐ることもしばしばです。
越後平野がコメどころといわれたのは、土地改良と乾燥技術の向上した戦後のことです。
また、白いご飯は江戸わずらいといわれるほど、江戸独特のもので、地方では白米だけ食べることはありません。
雑穀が主流です。せいぜいわずかに精米したぬかのついたお米です。
古代お米は献上するもので、庶民の主食ではありません。
稲作の拡大は、朝廷の税対策だった?
皮肉なことに、現代よりも、古代の方が日本人の食は多様性があったかもしれません。
「日本人は稲作農耕民」
とは、こうであったというよりは、かくあれという、政府の方針です。
日本民俗学の祖柳田国男でさえ、後に稲作一辺倒に編纂したことを改め、日本民俗の多様性を説いています。
自然豊かなといえば自然災害も多彩で、人はそれらの顔を八百万の神々と解釈し、神の体から幾多の穀物が生まれたように、多様な食物の恩恵を享受できました。
温暖な縄文時代から寒冷な弥生時代、さらに温暖化進む現代。
日本人の食も、適応を求められる時代が来るのでしょう。