日本画という呼び名が使われたのは、明治15年来日したフェノロサの講演の翻訳から、というのが通説ですが、それは違います。

彼の言う「Japanese painting」は日本のpaintingであり、絵画としての日本画をさしていません。

彼の講演「美術真説」は日本の輸出産業である工芸品の評価を高めようという趣旨からのものです。屏風、ふすま、着物、漆、掛け軸など、建築物や日用品に付随するpaintingが彼の指す「日本画」であり、版画もまた「日本画」です。

主題や内容を表現する絵画としての日本画は、画家たちの幾多の試行錯誤の後に形成された新しい絵画です。

明治期学校制度でも日本画科はありません。「図案科」であり「絵画科」です。

1876年(明治9年)につくられた工部美術学校が1883年に廃止され、国粋主義が台頭する中1887年(明治20年)東京美術学校がつくられた時でさえ、絵画科です。日本人自ら「日本画」という所以はありません。「図画」そのものが「Japanese painting」です。黒田清輝が帰国し西洋画科ができても「日本画科」はありません。

やがて官展である文展が1907年(明治40年)にでき、分類が必要とされてから「洋画」「日本画」の名称が使われだします。「日本画」は分類名であり、絵画様式の呼び名ではありません。

1918年(大正7年)京都で「国画創作協会」ができた当時、

「日本画」という呼び名は普及しておらず、それゆえ「『国画』創作協会」と命名する所以です。佐渡出身の土田麦僊らにより、西洋と対峙しつつ日本人としての絵画の模索が始まります。

「日本画」がようやく独立した絵画としての様式を整え、市民権を獲得するのは、1927年(昭和2年)当時の国語辞典「言泉」に載ってからです。

1919年(大正8年)帝展ができてさらに後のことです。

「国画創作協会」の日本画部門解散の後、「日本人としての絵画」創造は、梅原龍三郎らに引き継がれます。