昭和5年の大不況、出版界も同様です。
そんな中、岡茂雄氏は同業者岩波茂雄氏と相談し、まだ黎明期の民俗学を世に知らしめる『人類学・民俗学講座』発刊を試みます。
そのことを、日本民俗学の第一人者柳田国男氏に相談すると、柳田氏は「君が企画したら競争者は出まいから、焦らずに立派なものをしあげよ」と岡氏の背中を押します。
昭和6年、柳田氏の協力と助言をもとに、執筆者もそろい準備が進みました。が、他社である『歴史教育』誌に『郷土科学講座』という書物の広告を見せつけられます。企画の多くが岡氏の内容と同じで、さらに監修者の筆頭に柳田国男氏の名があります。
執筆者は、南方熊楠、渋沢敬三、折口信夫等そうそうたる顔触れです。岡氏はやむなく自身の企画を放棄します。
後日昭和7年、岡氏は柳田氏に事の真意をただしますが、
柳田氏は「忘れた。」とうとう「そんな話は止めたまえ。」
岡氏はその後、かなりの時を経て、この忌まわしいいきさつを、
『本屋風情』(1974年平凡社)に寄せています。
『日本植物誌図譜』刊行を手掛ける万太郎。
一方で自前の『植物誌図譜』を企む田辺教授。
東京大学植物学教室の、組織としての実績を上げたい、田辺教授の真意は伝わりません。
片や組織など眼中にない万太郎。
ふたりの解離は決定的となります。
いつの時代も、出版は研究成果の金字塔です。
後年の再販版