朝ドラ「らんまん」に出てきた武家の学問所。
武士が特権階級として大威張りした時代です。
が、
明治維新による社会の変革が行われ、失業する人もたくさんいました。
特にそれまで保護されてきた人々は職業転換が余儀なくされました。
武士の学問所だけでなく、民衆の私塾も様変わりです。
明治5年「学制」の発布により、全国で公立小学校が順次開校されます。
急激な制度発足で、学校とはいっても、お寺の講堂を間借りすることもありました。
武家の学問所がそのまま小学校になりることもありましたが、それまでの私塾と並行した時期もありました。
住職兼神主である私の4代前のおじいさんは、代々続く寺子屋の塾頭です。いよいよ塾が閉鎖となり、息子が公立小学校の校長に就任します。それまでのお寺から新築された校舎へ移動です。
小学校といっても、校長・用務員・訓導(教師のこと)そして児童は6名。私塾の頃の方が児童数が多いです。
校長自ら村々をまわり、小学校に通わせてくれとお願いに回ります。
寺子屋の時は通学時間など決まっておらず、子どもも働き手であった当時、手の空いた時に塾に来て、好きな場所に陣取り、その子が進む手順で読み書きそろばんでした。赤ん坊を負ぶって来る子もいます。月謝はお金でなくとも農産物ということもあり、つけ払い・ある時払いです。
それが、学校となると、時計に合わせて朝から夕方まで子どもが拘束されます。
身なり学用品にもお金がかかります。
校長は過労のためか、郡役所からの帰りに急死してしまい、急遽養子にでていた弟を呼び戻し、3代目の校長になりました。公立小学校とはいえ、制度発足当時は身内で引き継ぐこともありました。
↑3代目校長 徳蔵さん。
それでも13年間同校で校長を務め、児童数も増え、校舎が増築され、グラウンドと言うものも整備されました。今も敷地が残り、本当に狭い校庭ですが、石造りの校門が残っています。
何かの記念か、80年後に出された文集には、当時のことが児童の記憶として生き生きと記録されています。
江戸時代が終わり、身分制度・家格制度がなくなり、職業選択の自由が与えられ、その一方で個人の能力が重視され、学ばないものは取り残される時代になりました。
IT化でなくなる職業が騒がれる昨今、いつの時代にも変革はあるものですね。